言葉と心の発達

言語(言葉)は、私たちの日常生活に
欠かすことのできないツール(道具)です。

会話やメールを書くときはもちろん、
テレビや新聞を見たり読んだりするときにも
言葉が中心になっています。

私たちは『言葉』によって様々な情報を入手しています

でもそれだけではありません。
おそらく云われてみて
「たしかに、そうだなぁ」
と思うことなのですが、私たちの思考活動も
すべて言葉によって行われています。

心の中は『言葉』によって思考活動が行われています

たとえば、
何かが気になるとき、
心の中に「あれはどうなったかな・・・」
と、必ず言葉(つぶやき)が浮かんできますよね。

それに「あれをしよう、これをしよう」
と考えるときにも、心の中に「あれ」や「これ」
のイメージ(表象)と、言葉を浮かばせながら
思考しているはずです。

思うことは心に浮かぶ表象だけでできますが、考えることは言葉がないとできません

そう、普段あまり気にもとめていませんが、 
私たちの意識的な精神活動は、すべて
言葉によって営まれているのです。

そして
その意識的な精神活動の中心になって
いるのは、云うまでもなく自我です。

つまり『私』という自我が、
「あれは、どうだっけ?」
「これは、こうだよなぁ」
と(言葉で)心の中でつぶやきをしながら、
思考活動しているわけですが、

この言語活動が、人間の心の成長には
欠かすことのできない要素なのです。

もし
この言語がなければ、人間的な心の発達も
「ありえなかった」と云ってもよいでしょう。

つまり
私たちには、言葉というツールがあるから、
頭に浮かぶ無意識からの暗号(イメージ像)を
読み解くこともできるし、
そのイメージを膨らませ
心の世界を広げて行くこともできるわけです。

人間は言葉によってイメージを膨らませ、心の世界を広げることができます

しかし私たちは産まれつき、そのツール(言葉)を
獲得しているわけではありません。

言葉を覚え、
それがじゅうぶん使えるようになるまでには、
一年、そして十数年の道のりが・・・

人類の成長と社会の発展は『言葉』なくしてはあり得なかった

・・・と、前置きも長くなりました。(^^:

この章では、
私たちが産まれてから言葉を獲得するまでの
道のりを書いてみたいと思います。


これまでの章にも書いてきましたが、
胎内にいるときや、生まれて間もないころの
私たちの心はエス100%の無意識で、
自分の存在しか感じていません。    

たとえばそれは、視界の中に、
母親や部屋の様子が映っていたとしても、
母親の声が聞こえていたとしても、
それを自分の一部分として感じている状態です。

産まれたばかりの赤ちゃんは、見えるもの、聞こえるものが、すべて自分の一部分として感じています

ではなぜ、
そのように一体のものとして感じて
しまうのでしょうか?

それはもちろん
無意識の世界が、物事に区別のない    
ガチャガチャ、グチャグチャな世界で、
赤ちゃんの心(精神)には、まだ、
そのガチャガチャな無意識しかないから・・
に他ならないのですが、
それをもう少し突き詰めて考えてみますと、

人間は言葉で物事を理解する・・・
という話に行き着きます・・・つづきを読む


それでも、もちろん気持ちが良い、悪いという
快・不快の感情は感じています。
しかし言葉がありませんから、
「このスープは美味しくないなぁ(--;)」
と云ったような具体的な感覚ではなく、
ただなんとなく不快を感じているわけです。

おそらく心の中では
「とてもマズくて飲めないよぉ」と泣いている
自分の表象が浮かんでいることでしょう。(^^:

赤ちゃんでも、もちろん快・不快の感情はあります。ただ言葉がまだないので、ただなんとなく「気持ちがいい」「悪い」と感じているのだと思います

そして、
この頃の赤ちゃんは、「あー」「だー」と、
言葉と云うより、を発しますね。
これが言葉の原点(起源)
と考えられるわけですが、
それは相手に言葉を投げ掛けるというより、
心の中に浮かんでくる無意識の表象に
条件反射している、と云う感じです。 

「あー」「だー」と発声を始めた赤ちゃんは、相手に話し掛けているというより、心に浮かぶ表象に反応している、と云う感じです

と、ここまでが
胎児期(5ヶ月目)ぐらいから誕生直後の、
まだ心がエス100%の時期の話です。

やがてほどなく、自我が芽生え始めると
自分と自分以外のもの
が、なんとなく分かってきます。 

しかしまだ、
自我は心の中の数パーセントに過ぎず、
しかも言葉も獲得していませんから、
母親の姿をみても、なんとなく
「これは自分とは違うものらしい」
と、おぼろげながら感じる程度と思われます。


それから数ヵ月も経つと、
「あー」や「だー」の単純な発音ではなく、
「ばぶばぶ」「うまうま」「あっぱ」のような、
相手に語り掛けるような発声としぐさを
するようになります。

もちろん、
まだ具体的に「これは何」という
段階ではありませんが、耳慣れた言葉に対して
これは、こう呼ぶらしい・・・」
と、なんとなく分かってきているはずです。

「ばぶばふ」など言葉らしい発声を始める頃になると、言葉はしゃべれませんが、言葉を覚え始めています

しかし、まだ、
自分で発声する「うまうま」などの言葉も
母親を意味するものだったり、
オッパイを示す言葉だったり、
あるいは「美味しい」という意味だったり、
と、まだかなりゴチャゴチャして曖昧です。(^^;)   

それでも、
母親の姿や、オッパイを飲む自分の姿を
(自我が、それなりに)意識して発声している
わけですから、
それは母親などの外部への語り掛け(意思表示)
と考えて良さそうですよね。

つまり、
頭に浮かぶ表象に対する条件反射とは違い、
「私はこうしたい」
という意思を持った反応になっていて、
もう立派な会話と云えるわけです。

一所懸命に相手に語り掛けますが、まだ言葉の意味は曖昧です。でも会話をしようとしています

そうなると、
「おとうたん、おかあたん」
と、つたないながらも、おしゃべりを
始めるのも時間の問題。
もうすぐですね。(*^^*)

幼児が多弁になると・・・まだ表象への反応も残っているかも知れませんが、言葉を使い出す準備と思って良さそうです


ですので新しくお母さん、お父さんに
なられるみなさんは、ぜひ・・この続きを読む


そして間もなく言葉を使い始めます

よく幼児が話し始めた頃のことを
「言葉が溢れ出すようにしゃべりだした」
という表現で云いますよね。

言葉が使えるようになったことが
嬉しくて嬉しくて、
いままで溜めていたものを
「待ってました」とばかり、
一気に噴き出させたような・・・
そんな感じでしょうか。(^.^)

それは自我にとってもビッグ・バン。
生涯において一番の大爆発なのだと思います。

それくらい言葉が使えるようになることは、
人間にとって大きな意味があるわけです。

そして、幼児は、
いったん言葉を発し始めると、目を見張るほど
速い速度で、多くの言葉とともに
知識を身につけ始めます

これは、言葉と人間の思考(知性)がとても
密接であることの証しになると思います。

そして、一人で出来ることも増え、
少し親の手から離れて、
自分の世界を持つようになるのも、
この直後から、ですよね。(*^-^)


私たちにとって言葉は、
自分の思いを伝えたり、人間関係を深めたり、
生きていく上で、とても大切な
コミュニケーションツールですが、

しかし、それとともに、
自分にとっての知識や、あらゆる能力を
高め、引き出してくれる、
最高のパートナーではないかと思います。

それゆえに、多くの言葉を獲得し、
その言葉を真の意味で理解し、
使うことが出来るならば、私たちは
もっと心豊かに生きられる気がします。

そして言葉には、
それだけの力があります。

※語彙力を高めておくことの大切さ
という補足記事です。・・・読んでみる


最後は、タイトルから脱線して、
何やらクサい青年の主張みたいになって
しまいましが。(^^:(汗笑)

これは、こんな拙い文章しか書けない自分への
「もっと勉強せい」という戒めであり、
同時に「もっと頑張れば何とかなるかも」の
エールでもあります。(^^:

しかし、
タイトルを『言葉と心の発達』としたのは、
人間、生涯が発達途上と思うからです。

言葉とは不思議なもので、 物騒な言葉が
流行れば、物騒な世の中になります。

言葉にはそんな人の心(行動)に影響を与える
魔力があるのかもしれませんね。

ですので、個人個人の幸せの為にも、
そしてすべての人が心豊かに暮らせる為に、
どうですか? みなさんもご一緒に、
もっともっと言葉の発達をさせてみませんか?
というお誘いでもありました。^^ゞ

って、やっぱりクサい青年の主張ですね。(^^:
かなり昔の青年ではありますが・・・(汗笑)


(付録)実話として残る『狼っ子』の話を
少しだけ紹介させて頂きます。

この話は
人間の精神活動と言葉がどれほど密接であるか
が分かる、とても貴重な記録です。
この続き『狼っ子』の話を読んでみる 


【極楽とんぼのつぶや記】
  ~自我子ちゃんの奮闘記~

自我は言葉を獲得し「あれこれ」と思考を展開
しますが、それは同時に無意識に浮かぶ表象や
象徴的なものを、外部に言葉で伝えていく
メッセンジャーのような役割りもしています。

つまり、言葉を持たないエスの代わりに、
自我がエスの気持ちを整理して(思考して)
自分以外の人(外部)に伝える役割が
言葉にはあるわけです。
(エスの気持ち=心の中にある欲求・ホンネ)


乳児・幼児のころは、自我はまだ
意識の世界をしっかり持っていませんから、
自我はほとんどエスの気持ちを伝える
メッセンジャーの仕事だけをします。
つまり、専属の通訳みたいなものですね。

意識の世界をしっかり持っていない頃の自我は、エス専属のメッセンジャーでしたが・・・

しかし3歳ぐらいになると、自我も成長して
意識の世界に目覚めます。

後の章に書きますが、
これがいわゆるものごころがつく・・・
つまり
現実の世界が分り始めることなんですが、
そうなると、どうなるでしょう?(^^:

やがて『ものごころ』がつき、意識の世界に目覚めます

なんて
ここでクイズしても しょうがないですね。(汗)

はい^^;、
新しい世界を知れば、そちらのほうへ
興味が向うのが世の常、人の常。(^^:

いままで
無意識の世界で、エスの相手ばかりをして
過ごしていましたが、外の世界には新鮮な
刺激がたくさんあるわけで、自我も、
大部分の時間を意識活動に使うように
なります。
まるで『木綿のハンカチーフ』ですね。謎?^^;


つまり自我は、
無意識という内部活動より、意識という外部活動
のほうへエネルギーを多く使い、
言葉や知識の獲得を始めるわけです。


もちろんそれは、無意識をないがしろにして
意識を大事にするという意味ではなく
社会に適応することは「生きるため」であり、
心(無意識)と外部を繋ぐ外交官としての
役割りを果たす為でもあるのです。

外部との関係を良くしておけば、相手に自分の
気持ちを受け入れてもらいやすくなります。

それに、
言葉や知識を少しでも多く覚えることで
「嬉しい」「それは嫌だなぁ」
などの無意識(エス)からのメッセージも、
うまく外部に伝えることができますからね。(^^)

しかし、理由はどうであれ
エスにしてみれば、オモシロクない。
   
自我が外部活動を優先すると云うことは、
それだけ多くの無意識にある気持ち・・・
ホンネや欲求を無視(抑圧)されてしまう
のと同じですらね。(^^;) 

そしてそうなると、
エスと自我の関係にも微妙なズレができ始め、
後々の心の障害の原因になってしまう
場合があるわけです。     


たとえば、
無意識の中で思っていることと、
意識して話していることが噛み合わなくなると、
エスが
「オレの気持ちを ちゃんと伝えろよ (`ヘ´)」
と自我にクレームをつけたりします。

もちろん自我も、
エスの気持ちを十分承知しているつもりですが、
現実社会を生きぬく為には
無視せざるえないことが多々ある
ことも事実で、エスの欲求を抑圧しながらも、
心が痛みます。

そうした心の痛み(エスへのうしろめたさ)
や板ばさみが原因となって
心の病になりやすくなる、と云うわけです。


結局、
他人は騙せても、自分の心には嘘はつけない
自分の心を誤魔化してはいけない、
と云うことですね。

しかし、幼い自我にとって、言葉の獲得は
嬉しいことである反面、とても試練の多い
時期なのかもしれませんね。




 

もうひとつの精神活動(3)無意識の言葉
第二部のまとめ

このページは『無意識を知ろう♪極楽とんぼの精
神分析学入門』をスマートフォン対応に再編集し
たものです。※文章はスマートフォン向けに編集
してある為、パソコン画面では読みづらい部分が
あるかもしれません。また画像を多用しておりま
すが、サイズがスマートフォン画面では見づらい
場合があるかもしれません。ご了承ください。


 
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