心のスタッフの最後は
超自我 (ちょうじが superego)です。
超自我は、自我の中に芽生えます。
ですから、自我にとっては子ども、
エスにしてみれば孫のような感じですね。(^^)
※超自我の言葉文字が一部薄く読みづらい
場合があります。お許しくださいませ。
その超自我が誕生するのは、
私たちが
「早く片付けちゃいなさ~い」
とお母さんに云われて
「うるさいなぁ~、わかってるよ~ (`ヘ´)」
と反抗を始める4歳頃と云われています。
そして、 超自我は、超がつくとほ真面目で、
強い良心の持ち主ですが、私たちがふつうに
考える良心とは違って、横暴で、押し付け
がましい良心を持っています。
ん?そんなもん、良心と云えるのか?
って感じですけどね。(^^:
実は、超自我に頼らずとも、自我にもちゃんと
良心はあるのです。
その自我が持っている良心は、いわゆる
私たちがふつうに考える良心のことで、
人に悪いことをしたと感じたときに
「ああ、すまない(>_<)」と、心の底から
思う感情の良心です。
しかし、超自我の良心には、
心からの気持ちはこれっぽっちも無く、
反省心もありません。それこそ、
「悪いことだ、と決まっているからゴメン」
と機械的に謝罪しているような良心なのです。
(^^:
う~ん、ますます、なんだそりゃ?
「そんなもん良心ぢゃないだろ(ーー;)」
ですよね。お怒りも、ごもっともです。(苦笑)
ではなぜ、自我にも良心があるのに、
そんなヘンテコリンな良心が必要なのでしょう?
ふつうに考えればそんなの、いりませんよね?
(^^;)
しかし、やっぱり、必要だからあるのです。
話せば長くなるので、ここでは簡単に・・・
まずその発祥は両親だと云われています。
※もちろん良心と両親を引っ掛けたジョーク
ではありません。真面目な話です。(汗笑)
自我の良心は、
情緒(感情)とともに(自然に)成長しますが、
超自我の良心は、両親仕込み。
悪く云えば、
親からの考えの押し付けがすり込まれて、
「これは良くない」、「こうすべき」と、
自動的になっているだけ・・・
ですから、本当の良心とは云えないし、
親に叱られて、自我にしてみれば
「どうして私が悪いのよ(ーー;)濡れ衣よ~」
と、思うわけですが、
でもなぜだか、
とっても悪いことをしているような気持ちに
なって、心に強い罪悪感を持ってしまうのが、
超自我の『良心マジック』なのです。
って、やっぱり、
あまり良いことないですね。(^^;)
しかし、あとになって、両親だけではなく、
先生や周りの人たちから道徳的なことや、
社会性を学びとるのも超自我の仕事。
つまり道徳観や社会性を身に付けられるのも、
超自我の助けがあってこそ、なのです。
でもそんなの、自我でも出来るでしょ?
と思われるかもしれませんね。
しかし、たとえば、
「お年寄りは大事にしよう」
「約束やルールは守ろう」
などの道徳や社会性などは、本来であれば、
『共通認識』として統一されるべきものですが、
実際は、それぞれの人の考え方(人生観・世界
観)によって、まったく同じではありません。
ある意味それは当然で仕方のないことです。
ですが、それでもやはり何事も基礎は大事。
そこで、
せめて最初だけでも統一した認識で学ばせて
おこう、というのが超自我の良心。
まあ、ぶっちゃけて云えば、
エスと自我に任せていたら最初から全部が
「まあ、仕方ない」
と、テキトーなことで済まされて、
それこそ道徳や社会性なんて皆無な人生や
社会になってしまうので、
なかば強制的に「それはダメ」と頑固に
押し付けてくる存在も必要になってくる・・
と云うわけで、
どうしても、超自我のロボット的な良心
なのです。(^^:
それに、思春期あたりに
エスが大暴れする時期がきます。
そのときには自我だけでは抑えきれません。
エスはフツーではない暴れものですからね。
(^^:
そこで、
根が真面目で正義感の塊のような超自我が、
自我の心強い(?)助っ人になってくれる
わけです。
しかし、ここで、
心強いに(?)←が付きましたね。(苦笑)
はい(^^:、すべてが安泰というわけではない
のです。
それは、自我の助っ人になる・・・とは
云っても、超自我は超がつくほどマイペース。
と云うより、頑固と正義感の度が過ぎて、
そっちのほうで暴走。
いつもエスと衝突してしまうのです。
そして、
どっちの言い分も分かる自我は、
いつもエスと超自我の板ばさみ。
助けてもらうかわりに、それなりの苦労と、
リスク(心の障害の可能性)を背負うわけで、
かえって大変。(;^_^A
そんなワケで、
自我にとって超自我は、頼りになるけど、
「居ないほうが楽なのかも・・・(+_+)」
な、とても悩ましい存在、と云うワケです。
良薬、口に苦し、なんだけどニガ過ぎ?(苦笑)
まあ、それでも、たいていのことは自我が
「まあまあ・・・」と仲裁に入り、
何となくケンカもおさまってくれるのですが、
自我が不調だったり、
あまり長引くようなケンカだったりすると、
思わぬ心の障害になってしまうことも
あるわけです。
そのへんの詳しくは、この後の章と、
弟三部でお話させて頂きます。
ともあれ、これで一応、
心の3スタッフが揃ったわけです。(*^^*)
【極楽とんぼのつぶや記】
~補足として~
本編にも書きましたが、超自我の良心は、
心の中で自然に育つ情緒的なものではなく
外部から教え込まれた良心や道徳を
そのまま実践する良心・道徳ロボット
みたいなものです。
まあ、私たちが道を踏み外したり、暴走せず
暮らせるのも、彼のお陰といえばお陰。
そういう意味では、超自我のような役割りも
必要なのですから、彼も(良く思われずに)
損な役回り、なのかも。(^^:
ただし、
自分で決めた善悪の判断での良心で無い
ことや、 強引(無理やり)すぎる性質が
あるので、
もし超自我が強大であったり、自我が弱って
いるときは、心の中で強い葛藤が起こり、
場合によっては心の障害に繋がってしまう
こともあるわけで、ほんと痛し痒しですね。
もともと心の障害は、心の中の力関係、
心のバランス関係と云えるのですが、
この超自我が
かなりのキーマン(カギを握っている)
と云えそうですね。
神分析学入門』をスマートフォン対応に再編集し
たものです。※文章はスマートフォン向けに編集
してある為、パソコン画面では読みづらい部分が
あるかもしれません。また画像を多用しておりま
すが、サイズがスマートフォン画面では見づらい
場合があるかもしれません。ご了承ください。