そのむかし
『圭子の夢は夜ひらく』という歌がありました。
とてもせつない曲ですけど、小学生だった当時
は歌詞の意味もよく分からず、友だちと元気に
歌っておりました。(汗)
夢は夜ひらく・・・まあ、だいたいの人は
夜に眠るでしょうから、夢は夜ですよね。
って、ケイコさんの夢は、
そっちの夢じゃなく、もちろん、
「将来はスチュアーデスになりたい」
と心に抱く空想のほうの夢なわけですが、
いずれの夢にしても、まだうら若い女性の夢
としては、あまりにも悲しく、せつなすぎる
夢ですよね。
ところで、眠っているとき自動的にみる夢と、
「こんなふうになりたい」と空想する夢は、
同じ『夢』と書きますよね。
それはどうしてでしょうか。
単なる偶然でしょうか。(^.^;
精神分析学で云えば、
この両者には無意識という共通点があります。
つまり、
睡眠中にみる夢も、心に抱く空想の夢も、
同じ無意識(の領域)でみます。
夢境(むきょう)とは
夢の中の世界とは無意識であり、
夢路(ゆめじ)とは、
意識から無意識へ向かう道。
そして夢幻(むげん)の、夢と幻(まぼろし)も、
無意識の世界でみるもの、なのであります。
さて、しかし今回のテーマは、
ケイコさんの夢じゃないほうの夢、
眠ったときにみるほうの夢の話です。^^ゞ
フロイドは、そんな私たちの夢活動を
「きわめて、健康な心の活動である」
と云いました。
そして私たちも夢と云う非現実的な世界を、
なんの疑問もなく当たり前のように受け入れ
ていますよね。
けど、なんだか変な感じがしませんか?(^^:
ふだん目を覚ました『意識状態』のときには、
「これは現実的なこと。
これはありえない非現実的なこと」
と、ちゃんと区別ができて、
むしろ非現実的なことを、本当のことのように
話す人に対して「それはおかしい」と指摘も
できるのに、
いざ自分が夢の世界に入ると、そんなあきらか
に「ありえない」おかしな話なのに、なんの
疑問も持たなくなるなんて。(^^:
どうして私たちは、そうも簡単に無意識が送り
出す夢にコロッと、だまされてしまうので
しょうか?(^-^;ちょっと悔しいですよね。(苦笑)
フロイドも、夢を健康な精神活動と云いながら、
夢は精神疾患で起こる幻覚と同じもの
と考えました。
つまり、健康な人の心にも幻覚的なものが
存在することを認めていたわけです。
そして、そんな夢に、私たちが何の疑問も
感じない理由は、前章で書いた意識(外界)から
の遮断にあります。
つまり、意識(外界)からの遮断をするために、
現実から入ってくる情報(刺激)を、夢独特な
(幻想・幻覚的な)視覚像が覆い隠すことに
よって、現実と非現実との区別(判別)をでき
なくさせているわけですね。
要するに『意図的にダマしている』と。
でも、まあ、
これだけ気持ち良くダマしてくれたら、
夢から覚めたとき「今のは夢だった」
と区別がつけやすいですよね。
逆にあいまいなダマしだと、
非現実が現実と入れ替っていても、
なんの疑問も矛盾も感じることなく
「ああ、そうなのか・・・」
と信じてしまう可能性だってありますから。
(^-^;
※でも実際には、
あいまいな夢も多いですが・・・(苦笑)
しかし、とりあえず、
そんな夢の細やかな配慮?によって、
私たちは夢から覚めると・・・
無意識の世界から意識の世界へ戻ると・・
「あ、いまのは夢の話なんだな」
と、無事に現実の世界を取り戻すことが
出来るわけです。
ちなみに精神疾患などでは、
そうした判別能力が失われたままになって
しまうか、判別能力が低下したままの状態
のことであり、そのために
意識(現実)と、無意識(非現実な夢の世界)が
混同されたまま
現実の中に幻想・幻覚を見続けて、それを
「本当のこと」と信じてしまうような状態
を云うのですが・・・
実は、(幻覚とは云わないまでも)そうした幻想
などは、何も夢活動や、精神疾患などの病態の
場合だけではなく、
通常の覚醒した精神状態でも、私たちは日常的
に見たり(感じたり)しているのです。
たとえば、
実際には「そうではない(存在していない)」
のに、現実とダブらせて何か別のものが
「ふっ」と浮かんだり、見えたような気がして、
自分だけそれを(現実と)信じてしまったり・・・
もちろん、
そうしたときにも、覚醒時(目が覚めているとき)
には、意識(判別能力)が強く働いているので、
通常なら
「いかんいかん(>_<)、それは本当ではない」
と、すぐに現実を取り戻すことができます。
しかし、覚醒状態にあっても、何らかの理由で、
その判別能力が低下しているときには、一時的
に、 そうした幻想(想像)を「事実」と信じて
しまうこともあります。
「何云ってるの?気は確か?早く目を覚ませよ」
なんてセリフがありますよね。(^^:
つまり、私たちは、
現実をしっかり見ているようでも、心の中には、
幻想の世界も同時に存在しているので、
それ(幻想)を事実と思っている部分も多分に
あるわけです。
※理解しづらければ、
人間はカメラのような現実をありのままに写す
客観的な道具ではなく、きわめて主観的な動物
という視点はどうでしょう?
つまり、言葉悪く云えば、
人間は主観というフィルターを通して、
現実を(自分が)「見たいように見ている」。
自分なりの解釈で物事を見ている・・
これも同じ原理・・理屈?だと思います。
・・・と、なんだか、取り留めのない話に
なってしまいましたね。(汗謝)
それこそ、「ナニがナンダか」分からなく
なってしまいますよね。(^^:
しかし、そんなことを考え進めていくと、
夢や幻想という無意識の世界も、決して特別な
世界ではなく、私たちの意識活動と
「混ざり合って存在している」
ことが、なんとなくお分かり頂けるのでは
ないかと思います。
フロイドも、そうした理由から、
夢という幻想・幻覚の世界に注目し、
研究を重ねました。
つまり、夢や幻想は
意識的に出されたものではなく、
無意識的に私たちの心に浮かぶものだから、
そこに無意識からのメッセージが隠されている
と彼は考え、
夢から私たちの「ホンネ(本心)」や、
心の障害の原因を、探し出そうとしたわけです。
【極楽とんぼのつぶや記】
~究極の無意識体験?~
ほんとつまらぬ余談ですが、、(^^;)
わたくし極楽とんぼはあるとき、
不覚の大怪我で生まれて初めて入院をし、
生まれて初めて手術台でまな板の上の鯉に
なったわけですが、そのとき受けた麻酔での
眠り?※はとても興味深いものでした。
「終わりましたよ~」と起こされるまでの
1時間40分は見事なほど「あっ」という
間でございました。
もちろん、手術中のことは
一切なにもワカリマセン。(^-^;(汗笑)
あれこそ、無意識の底、究極の無意識だった
のかなぁ。とちょっと感動してしまいました。
できればもう、経験したくない感動ですけどね。
(^-^;
ちなみに・・・
2回目の手術(埋め込んだ金具の除去)のとき、
「今度こそ無意識の手掛かりを掴んでやる」
と、『探究者魂まるだし』で頑張ってみた
のですが、やっぱり結果は
「記憶にございません」
で見事に完敗でした。(汗笑)
ならば、もう一度リベンジ?
いや(^^:もう、いいです。(苦笑)
※厳密に云えば、麻酔は神経をブロックする
ものだから、眠りとは違うんですよね。(^^:
でも、意識を失えば行先は無意識しかありま
せんから、間違いなく「あそこ」は無意識で、
私は眠りと同じ状態だったのだろう・・・
と思うわけてす。(^_^;)
神分析学入門』をスマートフォン対応に再編集し
たものです。※文章はスマートフォン向けに編集
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あるかもしれません。また画像を多用しておりま
すが、サイズがスマートフォン画面では見づらい
場合があるかもしれません。ご了承ください。