性格形成(4)男根(エディプス)期




男根期(エディプス期)を迎えると、男の子も女の子も、自分の性器に意識を向けるようになります。
しかしそれは、生殖(性交)に目覚めるというよりも、性器そのものへの関心(興味)であり、同時に、
自分が男であるか、女であるか、の目覚めでもあります。

そして、性に対する意識を巡って、さまざまな葛藤を持ち始めます。
それは自我を発展させるに必要なことですが、性格を強化させたり、歪めたりすることも意味しますので、性格形成を固める時期としても大切な数年間になります。

※フロイドは、この男根期を神経症を決定づける
(発症要因として)もっとも重要な時期である、としています。


さて、それにしても妙なネーミングですよね。(^^:男根期だなんて。
それじゃぁまるで、オチンチン期なの?
って、実はそうなのです。(^-^;

この時期を何故、男根期(だんこんき)と呼ぶのかと云いますと、それは文字通りオチンチンの有る無しが中心となって、男女ともに成長変化するからです。

しかし男根期だからと云って、女の子には関係がないという意味では、決してないのです。(^^:

たとえば、人間やはり突起したものが目につきますよね。
男の子には、それがありますので、大変に誇らしく、それがあることにとても満足します。
反対に女の子は、それがないので、自分は欠陥なのではないか、と心配し、ないことで自信が持てず、それがなく産んだ母親を恨むと云います。

しかし男の子も、それがあることに満足はしますが、反対に失う(取り上げられてしまう)不安と恐怖を持ちます。

男根期は、そうしたあること、ないことが、話の中心になるので、男根期と呼ばれるわけです。


この時期は、それぞれの性が意識される時期であり、上記で述べましたように、有る無しによって、心の中(在り方)も違ってきますので、もちろん共通する部分もありますが、肛門期までのように、すべてが男女が同じようにというわけではありません。

もちろん、それがその先の性差を明確にして行く基礎になりますから、男の子は男の子として、女の子は女の子として、その差異をちゃんと分かって接してあげることが望ましい、と思います。

つまり、それぞれ特有の不安や葛藤に対する理解と、接し方が大切というわけですね。


では、まず共通する部分から述べますと、
性器に関する関心として、まず(性器に)触れることでの快感を知ります。
つまり、手で触れたり、物に押し付けたりすることで、気持ちが良いということを覚えるわけですね。

それ自体、悪いことではないのですが、親としては、それを許しておいて良いのか迷い、でも「良くない」という判断から、(大多数の親は)やめさせようとするのではないでしょうか。

しかし子供にとっては「何故いけないのか」が分かりませんから、気持ちの良い遊びを禁止されて面白くないわけです。 そして、隠れて・・・と云うことになるわけですが、その叱り方によっては、子供はやめられない事に、強い罪悪感を感じ(性欲を)抑圧するようになります。

場合によっては、後々、健全な性欲の発達が妨げられてしまうこともありますので、ある程度は自然の流れに任せておくほうが良いのかなと思います。

ただし、執拗に性器を触る自慰行為をする場合には、愛情に飢えていることがあり、乳児期の自体性欲に退行していることも考えられますから、なるべく早急に
不足している愛情を満たしてあげることが賢明かも知れません。

そして彼らは、好奇心から「赤ちゃんは、どうして産まれるのだろう」ということを考えるようになります。
もちろん、性器の結合や受精などという事には、知識も考えも及びませんから、たとえ「それはね・・・」と大人の知る生殖を教えたところで、理解できるはずもありません。

なので、私個人の考えとしては、真面目に応じてあげることはもちろんですが、「人が人を好きになって、お互いに赤ちゃんが欲しいと願っていると産まれてくるのよ」で良いと思うのです。
あるいは、(子供の年齢によっては)コウノトリや、キャベツ畑でも。(^^)
あとは彼らが自然に想像する範囲・・・つまり、あまりリアルな話をして夢を壊してしまうよりは、
「ああなのかなぁ」「こうなのかなぁ」と、自分の中でイメージしているほうが自然で健康的だろうと思います。

しかし、ときには、両親の性行為を目撃してしまうことがあります。これを『原風景』といいますが、少なからず彼らはショックを受け、その光景を心に刻み込む、と云われています。
しかしそれも、まだ行為自体の意味を知りませんし、「お父さんがお母さんをイジメている」程度なので、下手な言い訳をしてショックの傷口を広げてしまうよりも、両親が仲良しのところを見せて安心させてあげれば、充分です。    

もちろん、心に刻まれた原風景はありますが、それは後年に解決できる問題ですので、むしろ親があわてたりして、性行為に対する罪悪感イメージを強く持たれてしまうことのほうが心配です。


と、いろいろありながら、子供たちは新しい世界を獲得して行くわけですが、その中での両親に対する複雑な気持ち、もこの時期の大きな特徴となります。

子供にとって両親は一番身近な存在であり、愛着のある一番大切な存在です。
その愛着が、性を感じ始めた彼らの初めての恋人になるわけでが、恋というものは甘くせつないもので、彼らもまた、それに似た気持ちを味わうことになります。


まず男の子の場合、それまで母子一体で、どちらかと云えば母親にベッタリの関係でしたが、まだ母親に異性を意識する気持ちはありませんでした。しかし性を意識し始めた彼らは、(自分では分からないでしょうけど)そこに母親を女性として慕う気持ちを持つようになります。

もちろんまだ生殖能力こそありませんが、それ以外は、成人男子が持つ恋心と同じで、相手を自分に惹きつけたい、独占したい、守ってあげたい、というあの気持ちですね。

よく「大丈夫、ボクがお母さんを守ってあげるからね」というナイトのような発言をしますが、まさに彼らは母親を守る白騎士であり、母親を愛する気持ちを持つのです。

しかし、恋愛には邪魔者(?笑)が付きもので、彼らにとって一番の障壁が父親になるわけです。
いくら自分が母親を好きになっても、母親には父親という恋人がいる。
彼らは当然「父親さえいなければ」と思うのですが、その思う気持ちが彼らの葛藤になります。

もともと父親も自分の愛する対象なわけですから、同一人物に愛と憎しみ、、つまり愛憎を持つのですから、複雑な気持ちですよね。

こうした近親相姦的欲望から生じる葛藤をエディプスコンプレックスと云います。

男根期は、このエディプスコンプレックスを強く持つ時期であることから、エディプス期とも云われています。※エディプスコンプレックスの由来・・・を読む

※フロイドは、このエディプスコンプレックスを中心的なものとして、神経症理論を構築したと云えます。

男の子は、性器への強い関心と罪悪感、そしてエディプスコンプレックスでの罪悪感から、
「オチンチンが取られてしまうのではないか」という、不安と恐怖を持ちます。

これを去勢不安と云いますが、彼らはこの不安によって性器への関心(性欲)を抑圧したり、父親から母親を奪い取ることを断念する、と云われています。

このとき、男の子は奪い取ることを断念するかわりに、父親に同一化することで、その欲求を満たそうとします。

しかし、性器への関心や性欲を強く禁じられたりしますと、男の子は誇示したい優越感をも踏みにじられたようになり、強い挫折や失望感として残ります。

オチンチンの優越感は、男らしい能動性や攻撃性の象徴なので、これを失うと攻撃性が逆転してマゾヒズムに転じてしまったり、無力感を持ってしまったりしますので、親はこの「失う不安」をよく理解し接してあげることが大切ですね。

また、父親に対する同一化は、その後の自我の発達にとって重要な要素ですが、これもあまり強すぎると、神経症の原因になることもあります。

つまり、厳格で暴力的な父親に同一化した子供は、さらに自分を厳格に罰してしまうので、生きづらく、神経症を引き起こす要因にもなるわけです。

同一化は、対象(ここでは父親)の生き方を自然に取り入れる(真似る)ことなので、真似される父親はなすすべが無いように思われがちですが、そうでもないと思います。

たとえば、お父さん自身が、男たるもの(父親たるもの)厳格であるべし、力で圧すべし、と考えているとすれば、ご自身も結構 肩のこる毎日ではないでしょうか。
ならば、子供の為というよりも、これを好機に虚勢を張らずに済む生き方を考えてみる、というのは如何でしょうか。きっと父子で楽になれると思います。

と、これは一つの提案でした。(^^)



さて、次は女の子の場合です。
女の子の場合も、母子一体から、母親を女性として愛するようになるところまでは、同じだと云われています。

しかし、女の子の場合、自分のオチンチンが無い為に男の子のように振舞えない、だから母親を愛することができない、と強い劣等感から(愛することを)断念します。

この劣等感を男根羨望と云います。

羨望(せんぼう)、つまり、オチンチンを羨ましく思う、ということですね。

ちなみに、この男根羨望が根強く残った場合、男の子のように母親を愛したい気持ちも断念されずに残り、あとあとの同性愛的要素になることがあります。

また、同じような事ですが、男性のように振舞う女性、男なんかに負けるものかとと燃える女性は、この男根羨望が残っている人、と云えると思います。

※男子のところでは書きませんでしたが、もちろん男子にも同性愛的要素は、あります。
人間はもともと、自分の性と異なった性の部分(両性性質)を持っており、エディプスコンプレックスは、いわばその為に起こる複雑な気持ち、ですからね。

仮に、異性を愛するようになっても、同性の人に憧れを持ったり、目標にしたり、しますよね。
それからもっと身近では同性の友達、友情なども、この両性性質のお陰と云えると思います。

と、話の横道が長くなりました。

女の子の場合、母親への愛を断念すると、父親へ愛を向けるようになるのですが、そのとき、自分を不足に産んだ母親を恨むようになり、また「母親も自分と同じである」と軽蔑するようになります。つまり母親にもオチンチンが無いことで安心するのではなく、
「ああ、この人にも無いのね」と、深い軽蔑を感じる、と云われています。

もしこのとき、母親が非常に厳しい、女の子にとって怖い存在であった場合、彼女は母親に対する気持ちを完全に抑圧し、のちのちの神経症の原因になったりもします。

これらの母親に対する気持ちや男根羨望は、男子の去勢不安とは異なり、抑圧されることが少ないぶん、それほど時間を要することなく解消される、とも云われています。

しかし、劣等感は劣等感ですので、ここでは愛を向けられたお父さんの役割が重要になってきます。父親として充分に愛してあげることができれば、彼女たちも
「女の子に産まれて良かったわ」と満足できるので、女の子らしい、自信の持てる子になれるはずです。

最後に、、
女の子の母親への同一化は、経緯は多少違っても男の子の場合と同じ、と考えて頂いて良いと思います。

男子のところでは書きませんでしたが、このエディプス期の同一化とともに著しく成長するのは超自我です。

この時期の超自我に刻まれる道徳観は、できるだけソフトなもののほうが良いように思います。たとえば「こうしたらダメ」と云うより「こうしてもらったら嬉しいよね」「こうされたら悲しいよね」と相手の立場に立ったような気持ちで感じてもらう。あまり論理的である必要はないですし、価値観を押し付けにならないように、いろいろな場面(ケース)を想像しながら、いろいろなことを感じ取れる時間を提供さえしてあげたら、それで十分な気がします。

それでなくても超自我は「なんで?」と云うほど、ネガティブ・シビアに物事を吸収し、私たちに罪悪感(罪責感)を与えてくれます。ですから、わざわざ、親や周囲の大人たちが、大袈裟に彼らを脅かす必要はありませんし、必要以上の恐怖心は、子供は萎縮させるばかりか、強い不安に包まれて身動きを取れなくさせてしまいます。

のちのち神経症になる原因も、このへんの罪悪感や強い制限する気持ちにあると云っても過言ではありません。

ですので、そのへんを充分に留意しながら、男の子と女の子の気持ちを理解し寄り添ってあげることが、この時期のポイントと云えると思います。

できれば、親も子も、のびのび過ごせるのがイチバン、なのですけどね。

 

付録・自我と超自我の関係

 


 

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