ちょっとショッキングなタイトルですよね。
人間の本能が壊れているなんて。。
(注)この『人間は本能が壊れた動物』と述べたのは
フロイドではありません。精神分析学者でもある
思想家・岸田秀氏の彼独特な理論です。
しかし人間の本能は、他の動物たちの本能とは、
やはりどこか違うようなのです。
では、どこが、どう違っているのか、
見て行きましょう。
ですが、、その前に、、
私たちはふだん、本能、本能と云ってますが、
それは一体何なのか?です。
手元にある国語辞典(三省堂)を引きますと、
『動物が教えられたのではなく、生まれつき持って
いる性質・能力』とあります。
また心理学の辞書(ミネルヴァ書房)によりますと、
『動物学的で、遺伝的に備わった、その種に固有で
個体差のほとんどない行動様式。。。うんぬん』
とあります。
サルならサル、人間なら人間として、百匹、百人並べ
ても、ほとんど同じものであり、しかも、あとから
学習するのではなく、生まれつき持っているもの、、
という意味ですね。
ここで重要なのは、生まれつき持っているという部分
だと思います。つまりそれは生きていくうえで必要最
低限の持ち物と云うことです。
そして、その必要最低限のものとは、生存と生殖
(子孫を残すこと)です。
この二つの要件が本能として備わっているからこそ、
私たち動物は自分を生かすことも、子孫を残すことも
できるわけです。
さて、そんな重要なものなのに、人間の本能が壊れて
いるとすればこれは大事件ですよね。
ではそれは、一体どういうこと、なのでしょうか。
筆者なりの切り口が考えてみますと・・・
たとえば野生のサルで考えてみましょう。
彼らは自然の中で生活しています。ですから食べ物は、
自生した木々の実などでしょうか。
彼らは、生きるために何を食べたらよいか、何を避け
ればよいかを本能的に選り分けて、必要なとき、必要
な分だけ食べているわけです。
そして彼らには発情期というものがあり、そのときに
もオス同士が闘うなどして、よりよい子孫を残す目的
の為に、効率的のよい性交(交尾)をおこないます。
生存と生殖、いずれの本能も、ほんとシンプルで無駄
がありません。
では人間はどうでしょう。
私たちも食事はしますが、いつも生きるためばかりで
はありません。好き嫌いという選り好みをします。
おまけに食事前にお菓子を食べ過ぎたり、お酒を飲み
過ぎたりして、満足に食事を摂らなかったり、
身体に悪いと知りながらもタバコを吸ったり、夜更か
しをしたり、、、と、これは私のことでしょうか?。
。。大汗
とにかく食事に限らず見方によっては生きるためどこ
ろか、死にたいの?と思えるような生活行動も珍しく
ありません。
そして、人間にも発情期はあるという説もありますが、
現実的には一年中、性交をおこなったりします。
しかも、妊娠を嫌がったり、妊娠しないように避妊を
したりしますから、(他の動物のように)子孫を残す
ためだけに性交をしているわけではない、ことが分か
りますね。
フロイドも、こうした他の動物と人間の行動の違いを
研究し、人間も動物としての本能は機能しているが、
その生活行動が大きく異なっているために、(他の動
物の本能からみれば)人間の本能は異質なものと
考えたわけです。
もちろん、それを人間特有の本能と云ってしまえば
構わないのかも知れませんけどね。(^^;)
しかし、本能は元々自然界で生きていくために備わっ
たもの(それだけ持っていれば自然界で最低限、生き
延びられるもの)を指すので、それが壊れている(機
能していない)とすれば、人間は自然界では生きにく
い、あるいは生きては行けない動物、ということにな
るわけです。
では何故、人間の本能は壊れてしまったのでしょうか。
結論から云ってしまえば、人間が他の動物と違い、
精神(心)を持ってしまったからなのです。
壊れてしまったと云うからには、元々の本能もあるわ
けで、もちろん、今でもちゃんと本能は備わっている
のですが、その本能に精神が入り込んだ為に、いささ
か複雑な形になってしまった、というわけです。
たとえば、本来であれば人間も、もともと備わってい
る本能によって、お猿さんと仲良く木の実でも食べな
がら、あるいはウサギやイノシシなど狩猟しながら、
自然界で生活していたはずなのです。
しかし、「ああしよう」「こうしよう」の精神が宿っ
た為に、ちまちまと自生する木々の実を採ったり、
不安定な狩猟をして暮すよりも、自分から食べられる
ものを確保して「一年中、不安なく生活しよう」と、
地を耕し稲作を始めたり、狩りした動物を飼育したり
と、自然界に手を入れ始めたわけです。
つまり、植物が育ち、実がなって、それが熟して・・
という(本当の意味での)自然の摂理を待てなかった
のですね。
もちろんその程度であれば、少し知恵の発達した動物が
「自然界の中で自分たちが生きやすいようにした」
と、本能の範囲内で済んだのかもしれません。
しかし人間の「ああしよう」「こうしよう」には、
「これをしたら心地よい」「あれをしたら家族が喜ぶ」
などの感情が宿っていますから、もはや生まれつき
備わった本能の範囲を超えた別物になってしまった
わけです。
つまり、本能という扱い方では、説明しきれないので
す。(^^;)
そして、そうこうするうちに、「もっと豊かに、安定
的に」の「もっともっと」が高じ(経験から、さらに
知恵がつき)、木々を伐採したり、必要なものを他の
場所から持ち込んだりして(ある意味での自然を破壊
をしながら)自分たちの生活を向上させて行きました。
そうなると、いくら自然を利用した、とは云っても、
そこには本来の自然は無くなっているわけで、人間の
住む場所だけが造られた不自然なものになってしまっ
たわけですね。
しかしそこまで行くと、もう後戻りは出来ません。
いちど豊かな生活をしてしまうと、生活レベルを落と
しづらいのと同じ・・いやそれ以上に
「隣りが藁の家から木造家屋になった」となれば、
「じゃあ、うちも」という話になって、
どんどんエスカレートしてしまうわけです。
これも精神の欲というものでしょうか。(^^;)
今も太古も変わらんわけですね。。(汗笑)
と、妙な例え話になってしまいましたが、いずれにし
ても、そのようにして、人間は、いつの間にか、自然
の中では生きられない、自然界からはみ出した動物に
なってしまったわけです。
ちなみに、、さきほど、本能に精神が入り込んだ、
と述べましたが、その精神で本能の代役を務めている
のが、自我です。
つまり自我というのは心の一部ですが、「これが私」
という意識や認識、行動の主体でもあります。
私たちは、この自我によって、「こういうときには、
こうしよう」、「そういうときには、こうすればよい」
という、(本能に似た)生きる為の方向性を保ってい
ると云えます。
いずれにしても、今風に云うなら本能と精神がコラボ
レート(共に働く)したことが、(本能のみで生きる)
他の動物たちとの大きな違い、と云えるわけです。
※他の動物の本能は育ちませんが、代役である自我の
「私」は成長につれて、どんどんと広がりを持つよう
になります。
つまり「私」→「私の家族」→「私の地域」→「私の
社会(学校・職場)」→「私の国家」ですね。
そうやって人間たちは、自分たちの生きる場所として、
文化や社会を築いてきた、と云えます。
もちろん、社会が発展するということは、それだけ
自然界が(さらに)遠のくという意味でもある。。。
なんとも皮肉な話ですよね。(^-^;
人間の本能 精神分析学の欲動論
さて、上記の事を踏まえて頂いたうえで、
いきなりフロイドの欲動論の話です。^^ゞ
いくら本能が異質なもので、自我が本能の代役とはい
っても、やはり人間にも本能はあります。
しかしフロイドは前述したような本質的な違いがある
為に、人間の本能を欲動(よくどう)と呼び、他の動
物の本能と区別することにしました。
彼の発見した、他の動物の本能と、人間の本能(欲動)
の決定的に異なる点は、次の部分です。
まず、動物の本能には、
生存と生殖という2つの働きがあります。
フロイドは、人間にも「それはある」として、
その二つを
生存→自己保存欲動
生殖→性の欲動(性の衝動)
と呼ぶことにしました。
では、その決定的な違いとは何でしょう。。。
冒頭にも書きましたが、
動物の本能にある生存と生殖は
「生きる」、「子孫を残す」と、
どちらも『生(生きる)』
ことに関して同一方向性を持ち、
とてもシンプルな構造です。
しかし、人間の欲動は同じ『生きる』でも、
自己保存欲動は、あくまでも現実原則
(たとえ不快でも外界の現実に従う)に従い、
もう一方の
性の欲動は、あくまでも快楽原則
(ひたすら快を求め、不快を排除する)に従う、
と云う正反対な対立した関係の欲動を持つ、
いささか複雑な構造なのです。
つまり、他の動物たちは、ただ生きるという方向性し
かありませんが、精神を宿してしまった人間は
「生きる」ことに関しても、まったく正反対な性質の
欲動(本能)を持ってしまったわけで、それが他の動物の
本能と、人間の欲動の決定的な違いと云えます。
でも、何でそんなに複雑な構造に?
快楽楽原則と現実原則についての補足※です。
そしてさらに、フロイドは考え方を進め、
そこに攻撃本能を加えます。
攻撃本能は通常、単独ではなく、正常に働くときに
は、性の欲動とペアとなって、私たちの日常行動とし
て現れます。
フロイドは「欲動には攻撃性もあり、その攻撃性によ
って目的を果たすことは、いささかも異常なことでは
ない」と云います。自己保存欲動(現実原則)が保守
で『静』なら、性の欲動(快楽原則)は革新で『動』
の性質と云えます。
たしかに、「負けまい」「生き残るぞ」という攻撃的
な勢いもないと、物事(欲求)の達成は難しいですからね。
ただし、この攻撃本能が単独で暴走した場合には、
「生きるため」というより単なる破壊行為ですので、
何らかの心の問題か、精神疾患を疑うことになります。
たしかに、人間の行動を見ていると、いつも建設的、
益的ではないですよね。
「なんで、そんなことするの?」と、他人の目には
破壊としか思えないことが、しばしば起こるのは、
この攻撃本能のしわざ(暴走)と云うわけです。(^^:
さて、フロイドは、この攻撃本能を加えて、
人間の欲動を、以下のように定義づけます。
まず、攻撃本能は性欲動と結びついて「生きよう」と
するエネルギーとなる反面、破壊・衝動的な死に至ろ
う・・『無・無機』の状態に戻ろう・・・とするエネ
ルギーが多くみられること。
通常ペアとなって動く性の欲動が、感覚的満足も含め
対象に近づこうとする接触の欲望(衝動)であるのに対し、
攻撃本能は、対象に反発し、ときにはそれを破壊しよう
とする衝動であることから、もともと両者は相容れない
(対立する関係)であると位置づけ、
攻撃本能を死の欲動(死の衝動)
と呼ぶことにしました。
そして、自己保存欲動と、性の欲動は、
対立関係にあっても結局は『生(生きる)』
という方向性に向かっている。
なので、この2つの欲動を生の欲動とし、
生の欲動(エロス) VS 死の欲動(タナトス)
と定義づけすることで、両者の対立関係を明確に分けた
わけです。
フロイドが、この死の欲動を定義つげるまでには、
紆余曲折があったようです。
そしてこの定義がフロイドの手を離れたあとも、学者
たちの意見は様々に分かれたまま現在に至っています。
しかしそれをここで書き並べでしまうと、またややこ
しく、大変なことになってしまうので省略致します。
(^^:
ただ、一点だけ付記しておきますと、
ある恐怖体験をすると、自分では嫌だと思いながら、
それを反復して思い出してしまうことや、心身には良
くないと思いつつも、どうしてもやめられないこと、
が人間にはありますよね。
そうしたことをフロイドは、死に向かうエネルギーと
して「死の欲動」と呼んだわけです。
たとえば、自分から死を選んでしまうことも、
この死の欲動の仕業(しわざ)なのでしょうね。
そして、無気力な状態や、拒食症などで食べ物を受け
付けない状態なども、『緩やか(ゆるやか)な自殺』
と云われ、この死の欲動が(生のエネルギーよりも強
く)働いてしまっている状態と云えると思います。
少々、込み入った話で長くなってしまいましたが、、
ここでは、ややこしく、単純で無いのが人間の本能と
覚えて頂ければ、と思います。
そのお陰で、人間は文明や文化を築き上げることが出
来たのですが、とても悩める生き物になってしまった
わけですね。
フォンでお楽しみ頂けるよう再編集したものです。
※文章はスマートフォンで読みやすいよう編集し
てある為、パソコン画面では読みづらい部分があ
るかもしれません。また画像はパソコン版と共用
のため、スマートフォン画面では見づらい場合が
あるかもしれません。あらかじめご了承ください。