心の詳細図、最後は・・・
何やら辛そうなサブタイトルがついてますが(^^;)
自我にスポットを当ててみたいと思います。
自我も、もともとは快楽の人だったので、成長するに
つれてあれやこれやを押し付けられるのは辛かろう、
と云う意味で、このタイトルにしてみました。(苦笑)
さて、その自我からみて、自分の隣人たちは、
どのように映っているのでしょうか。
まず超自我は、生真面目過ぎて、融通のきかない堅物
ですが、まあ、ともすれば怠けてしまう自分(自我)を
叱咤してくれる、ある意味、たのもしい隣人なのかも
知れません。ただし、あまり強く叱られたり、強要さ
れるのは嫌でしょうけどね。(^^;)
で、問題(?)は、エスです。
これまでの章から、
自我はエスから分化して(分かれて)誕生したが、
エスの一部分であることに変わりはない。
そしてエスが世間知らずの快楽原則でしか生きられ
ない性質なので、社会に適応するために自我がエスを
コントロールしている。
しかし、そんな自我の活動エネルギーも、すべてエス
から供給されている・・・
と云うことが分かりました。
つまり、お互いが、お互いを必要する存在なのです。
しかし、独立して「私」という人格を持ってしまった
自我にとってエスは、ある意味何か不思議なものでも
あるようで、ドイツ語であるエス(Es)の語源は
「それ」。
つまり、自分と同格というよりも、
「隣りにある何か」という感じで、掴み所が分からず
(自我はエスに対して)戸惑いすら感じているのかな
・・・と。(^^;)
もちろん、そうした言葉的(表現的)なことは、後か
ら人間が考えたことで、犬が勝手に犬と呼ばれるだけ
で、犬自身は自分が犬と呼ばれていることを知らない
のと同じで エスや自我にとっては、どうでも良い
ことなのですが、(汗笑)
それにしても『何か不思議なもの』という表現は、
エスにピッタリという感じがしますよね。(^^;)
実際、超自我は、ちょっと面倒くさい面もありますが、
実体が分かりやすいぶん、付き合いやすいですが、
エスのように謎な部分が多い相手は
「次は何が出てくるのか?」
の不安も大きい感じがしますよね。(^^:
さて、話がいきなり脱線してしまいましたが、先ほど
も述べましたとおり、
しかし、エスと自我は敵対しているわけではなく、
両者は共存し合っているわけです。
しかも自我はエスの懐(ふところ)に住んでいるわけ
ですが、これからが本題です。
実は、自我は常に安定して同じ状態ではなく、状況に
よってさまざまに変化し、それによって精神状態に
影響が表れてきます。
仮に自我を包むエスの大きさ(容積)が常に一定
だとすると、
その中で自我は、大きくなったり、小さくなったり、
またあるときには自我が分離してしまうこともあり、
そうしたことが、私たちの心理的な不安定さや、
心の病の原因になったりもするのです。
たとえば、自我が大きくなるということは、それだけ
多くのものをエスから自我の中へ取り込み肥大化する
ことを意味しますが、それは同時に自我という『私』
が多様化するようなものですから、
そうなると「あれも自分、これも自分」ということに
なって、どれが本当の自分か見失ってしまうという
現象が起こります。
つまり、勢力的にはエスを抑える自我が強くなり、
それなりに安定しそうなものですが、
たとえば、看護師にもなりたい、客室乗務員にもなり
たい・・・あれも自分、これも自分・・
「一体自分は何になりなのだ??(^^; 」
と、自己の中での迷いや矛盾も多くなり、心の統一性
が保ちづらくなってしまうわけです。
何事も「ほどほど」。
大きければイイってものでも、なさそうです。(^^:
またたとえば、自我が小さくなるということは、
それだけエスが肥大する・・・
先ほどとは反対に、多くのものを自我がエスに放出し
萎縮する、ことを意味します。
つまり今度は、『私』という自我の統一性もある程度
保ちやすくはなるのですが、
「これも自分ではない、あれも自分ではない」
と、自分を否定する不安定な状態になってしまう
わけです。
そうなると『私』と云う主体性も危うくなりますから
ある意味「エスのいいなり」となり、
自信の喪失や、投げやりな気分、イライラなど、
かなり不安定な精神状態を余儀なくされてしまいます。
もう一つの形は、
自我が二つ、三つと分離してしまう状態です。
後述しますが、自我は自分自身を守る為に、防衛機制
などいろいろな行動を起こします。しかし、自我自身
がやった行為でも、中には自我自身が
「これは本意ではない」「これは自分ではない」
と認めたくないものも出てくるわけです。
そうなると、それを認めようとする自我と、
絶対に認めようとしない自我と云うように、
自我の分裂が起こってしまうわけです。
こうした分裂は、特殊なことではなく、
たとえば、心が
「ああでもない、こうでもない」
と迷い葛藤している状態が「それ」なのですが、
神経症などの心の障害でも見られる現象です。
さて、では何故このようになるのか?ですよね。
それは、前章の『人間は本能が壊れた動物』でお話し
ました通り、人間の心が複雑になり過ぎたことや、
生きることに関係のない仕事が多くなり過ぎたこと
などが関係している、と思います。
たとえば他の動物であれば、本能的な反復機能によっ
て、ただ生きて子孫を残すことだけに終始します。
それが彼らにとっての生きる為の仕事で、
実にシンプルです。
しかし人間の場合、知恵や欲などから生活環境(社会
構造)を複雑にしてしまった為に大変です。
学校へ行って勉強して、ある程度の年齢になれば就職
などして、生活を維持しなければいけない・・・
おまけに、快適に暮らす為にと、家電品を揃えたり、
自動車を買ったり・・・
つまり人間は、生きることに余計な付加価値をつけ過ぎ
てしまったのです。
もちろんそれらは人間が生きる為に必要な事なのだ、
と云ってしまえばそうなのですが、
食べる、眠る以外のそうした仕事は『動物として生』
をまっとうするには、なんら根拠も価値もないこと
なのです。
たとえば、勉強をたくさんしたからと云って寿命が
延びるわけではありませんし、名誉やお金をたくさん
得たからといって、死が免除されるわけでもありま
せん。
つまり、どんなに頑張っても、本来の生にとっては、
まったく無関係なのです。
しかし人間が、そうした余計なことに神経をすり減ら
していることは事実で、それだけでも、自我にとって
は十分過ぎるほどストレスで、心(自我)が休まる暇も、
安定する暇を失ってしまったから・・・と考えられる
わけです。
要するに、自我の過労働と、容量不足みたいな状態
ですね。(^^:
おまけに、マイペースであるエスや超自我と違い、
自我は常にエスや超自我、そして外界との間で板ばさ
みになっていますから、なかなかマイペースとは行か
ず、安定することも難しいわけです。(^^:
そこで自我は、次章に書きます防衛機制などを使い、
なるべく心を安定させようとします。
フォンでお楽しみ頂けるよう再編集したものです。
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