心の全体図(2) 無意識の中にあるモノ

前章では人間の意識と無意識について、簡単に述べさ
せて頂きました。かなり複雑で、ややこしい世界に
感じられたのではないでしょうか。

「心なんだから、ガラス張りのオープンでいいじゃな
い?」と、思われた方もいらっしゃると思います。
そうですよね。自分の心なのですから、自分でも分か
らない部分がある、というのは嫌ですよね。

しかし、たとえ自分に対してでもオープンにできない
理由、わざわざ複雑な構造にしてある理由が、
心にはあります。

そうした理由も含めて、この章では無意識を 
もう少し見て行きたいと思います。


まず、こんなふうに想像してみてください。

私たちは普段、物事を「あれこれ」と考えています
が、それとは別の部分でも、そうした精神活動が
行われている・・・と。
それはあたかも、もう一人の自分が居るようですが、
それが正解で、
もう一人の自分の精神活動が無意識の世界です。


しかし、前章でも述べましたように、その無意識は、
本人である『私』自身にも、まったく認識できません
そして、意識的に行われる思考の多くは『言語』、
言葉によって「ああだ」「こうだ」と頭の中を駆け
巡りますが、無意識での思考は視覚的なイメージの
世界です。

例えば、私たちが眠っているときに見る夢がそれです。

無意識の中では、さまざまな思いがイメージ画像と
なって詰まっているのです。

そしてそれらは、まったく時間や善悪の概念の無い
世界です。 補足・・詳しく読む

つまり、いま、あなたが直面している事態とは関係な
く、さまざまな思いがうごめいているのです。


さて、無意識の世界、
なんとなくイメージできましたでしょうか。


それでは、そのもう一つの思考機能とも云える無意識
の中にあるモノとは、そもそもどんなモノか?です。

前章では、無意識は牢獄、その中にあるモノは捕わ
れ人などと物騒な例え方をしましたので、みなさんも
「いったいどんなモノが入っているの?」
と、興味があるのではないでしょうか。
  
そうですね、、、無意識という閉ざされた場所での
ことですから、こういったモノが詰まってます、
という断定した云い方はできないのですが、それでも
牢獄や捕われ人という表現も、まったく的をはずした
ものではないような気がします。

ただ、牢獄に繋がれるのは、なにも罪人だけとは限り
ませんよね。


と、少しもったいぶった云い方で引っ張てしまいまし
たが(^^;)、

まず無意識の中にあるモノの代表格は、動物でいう
本能『欲動』です。

もちろん人間も動物なので、本能という呼び名でも
良いわけですが、訳あってフロイドは人間の本能を
『欲動(よくどう)』と呼びました。
(その理由は、また後述します)

で、その本能は・・・無意識に閉じ込められていると
云うより、もともと無意識に居た先住民なのですが、
やはり人間社会では「閉じ込めておきたい」ものの
一つです。(^^:

なぜなら、動物を思い浮かべて頂くと分かると思いま
すが、とても衝動的で、身勝手ですよね。(^^;)

まあ、動物の世界ではそれで良いとしても、とても
人間社会では通用しないのが本能行動・・・
というわけで、
「無意識の中で大人しくしておいてください」
という感じなのです。(^^ゞ


そしてその他、無意識の中には、
自分では思い出すことの不可能な古い体験、
あるいは、心に抱いたけど表面に出せなかった
怒りや、恨みの感情、そして、
思ってはいけないと心が判断した欲望など
詰まっている、と云われています。
もちろんそこには「忘れたくないほどの良い思い出」
などのプラスの感情も含まれている・・はずです。

そう、生まれてから現在までの様々な出来事や、
ググッと飲み込んだ怒りや悲しみ、倫理的、社会的に
許されない欲望などが詰め込まれているわけですね。

でも、そうした感情を、どうして無意識に閉じ込めな
くてはいけないのでしょうね?
生きていく中では、そうしたマイナスの感情も、
特別なことではない、はずなのに・・・

しかし、心は、そうは考えなかったのでしょう。
心としての判断は、自分を守るためです。

「それを云っちゃ、おしまいよ」 と、フーテンの
寅さんも云ってますが、世の中には思っても云わない
ほうが無難なことや、したくても、してはいけない事
が、たくさんありますよね。

心は、そうしたことを直観的に嗅ぎわけて、直接表面
に出てしまうと自分の立場が悪くなる、都合が悪い、
と判断した感情や衝動を、無意識という心の深い部分
に沈めてしまう、と云うわけです。


そして、これは大事なことなのですが・・・

この無意識の中に(感情を)閉じ込めることを
抑圧(よくあつ)
閉じ込められたものを抑圧されたもの
と云いますが、

私たちは、この抑圧が行われたことを、
自分自身でも、まったく自覚することが出来ません。

つまり、抑圧は自分ではまったく知りえない部分で
行われている、と考えてください。

たとえば、
「父親を殺したいほど憎く思った。しかしこれはイケ
ナイ気持ちなので、グッと心の中に抑圧した」
この抑圧の使い方は(精神分析学では)間違いです。

この場合・・意識的な部分(理性)で気持ちを抑える
ことを抑制といい区別されます。


そして、もしこのとき、抑制ではなく抑圧という心の
働きがあったとすれば、この人自身、抑圧したことは
もちろんですが、「父親を殺したい」と殺意を感じた
ことすら知らないか、
その感情が収まったあと、殺意を持った気持ち自体、
忘れてしまうか、あるいは
「それほどのこともなかった」
と思う・・・ことでしょう。

それくらい、この無意識という心の部分は、強烈な
吸引力で瞬時に感情を吸い取って私たちの意識から
消して去ってしまうわけですね。


しかし、感情は吸い取ってしまっても、それが異次元
に葬られたわけではありません。
ちゃんと無意識の中に保存されています。


むしろ、怒りや憎しみの感情などは、抑圧されて
「うやむや」になるよりも、
「こんちくしょう、いつか殴り倒してやる」
と、いつまでも(表面上で)意識されているほうが、
いずれ解消される意味では、健康的と云えるのかも
知れません。(^^:

事実、抑圧してしまった為に、後々にそれが、
心の病や、思わぬ心の爆発に繋がってしまうことも
あります。

ですが、抑圧した時点では、心にしてみれば、
「それが最良の判断」
だった、というワケですね。

まあ、その何がどう最良なのかは疑わしいですが、、
そのへんのことは、また後々に。(^^:


ともあれ、
それくらい無意識の中は、さまざまな感情のエネルギ
ーで一杯になっているわけです。

そして、そのエネルギーたちは、私たちの行動に、
さまざまな影響を与えて行きます。

たとえば、
むかしイジメられた経験を抑圧した人が、暴力に怯え
たり、反対にイジメの首謀者になってしまったり。

あるいは、むかし親から精神的虐待を受けた人が、
どうしても自分の子どもを愛せなかったり、
親から受けたと同じような行為を子どもに向けて
しまったり。。

しかし、本人はむかし自分がされたイジメや虐待の
苦しみは覚えていても、憎しみを(抑圧した為に)
覚えていませんから、
「どうして、そうなってしまうのか」
が分からず・・自分の心の問題と結びつかず・・
漠然とした辛さに苦しむことになってしまいます。


もちろん、無意識の中身が、たとえそれがマイナス
のエネルギーであっても、それをプラスのエネルギー
に替えて、大きくステップした人も数多くいます。

たとえば、悔しい思いや失敗も、そこでメゲずに以前
より大きな成果を獲得してしまう人。

気持ちのうえでは何の悔しさも意地もないのに、なぜ
だかいつも意欲的な人。

おそらく歴史に名を残す偉人たちや、世の中で活躍し
ている人のほとんどは、そうした無意識のマイナスを
プラスに転じた人たち、と云えるでしょう。

つまり、抑圧されたエネルギーたちは、悪く云えば
支配者ですが、私たちの精神活動や肉体活動、ひいて
は社会活動の原動力でもあるわけです。


ではなぜ、
そのようないろいろな道に分かれるのでしょうか。

抑圧されたエネルギーの内容や量の違いや、その後の
環境の違いも関係すると思います。

そしてそれがそれぞれの人間の違い(個性)と云って
しまえば、そうなのですが、
でも、やっぱり気になりますよね。


心には意識、無意識という部屋の中で、さらに細かな
働きをしている心のスタッフたちがいます。
どうやら彼らがどう働くかが、私たちをいろいろな道
へ動かす要因になっているようです。

つまり大袈裟に云えば、その明暗のカギを握っている
のは、彼らということになりますね。

そこで次々章から、心の中をもう少し掘り下げて、
その心のスタッフたちにスポットを当ててみたいと
思います。


と、その前に、次章では、
フロイドの無意識研究の中でも、とくに重大重要な
成果、の話を書きたいと思います。


 

 

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