別篇 人間はみんな病人・・・?!

「人間みんな病人です」
これは第二部の『未生怨』でご紹介しました、古沢平作(こざわ へいさく)博士の言葉で、彼の口癖だったようですが、私もこの言葉が好きで、
「人間、何か必ずビョーキかな?と思うような部分を持っているものですよ」
と、使わせてもらっています。

その「ビョーキかな?」の中には、自分は人より胃腸が弱いとか、視力が弱いとか、記憶力が悪くて勉強がダメだったとか、そうした身体能力の弱点も当然含まれるわけですが、精神科医である博士の云う病気は、どちらかといえば『心の性質について』です。

たとえば、あることに「いい加減にしたら?(--;)」と周囲に云われるほど執着してみたり、自分でも「マズイなぁ」と分かっているのに、やめられないことがあったり、あるいは、食事の仕方や、ちょっとした仕草(動作や身のこなし)にしても、必ず「あ、誰それさんだぁ」と一目で分かるような、その人、独特なものがあったりするのが人間です。

そして、そうした「人との違い」が個性と呼ばれるもので、だからこそ、人間いろいろで面白いわけですが、もし人間に、型にはめた一定の基準があるとすれば、そうした個性もすべて、規格外な異常なもの。

つまり「人間みんな、どこかおかしい(病人)」になってしまうわけです。

「人間みんな病人です」の意味、お分かり頂けましたでしょうか。(^-^;説明、簡単すぎ?(汗笑)


ところで、いま例にあげた、執着してみたり、やめられないことがあったりなどは、何かの症状に似てませんか?
そう・・・神経症(の強迫観念・強迫行動)ですよね。

しかし、そうした執着や、やめられないことを抱える人のすべてが通院して薬を飲んでいるわけではないし、自分でも具合が悪いとか、病気だと思っているわけでもない。
でも、しっかり強迫的な部分は持っているわけです。


ならば、病院へ行って(強迫)神経症の診断をもらい薬を飲んでいる人と、病院へ行かずに生活している人との違いは何か?
それは自分の状態に不便さや、生活のしづらさを感じるか、感じないかの違いだけだろうと思います。

つまり、自分自身に違和感を感じた時点で、状態が症状という呼び名に変わり、「なんとか治したい」と考えるようになる・・・
でも、しつこいようですが、状態の強弱や、感じ方(受け止め方)の違いはあっても、どちらも、しっかりと強迫的な部分は持っているわけです。


しかし、さっきからなんで、しつこいくらいに(それこそ強迫執拗に)強迫的な部分は持っていると連呼しているのかと云いますと、「人間みんな病人」である理由と原点が、この強迫的な部分にあって、しかもそれは、すべての人が(宿命的に)持っている性質要素だからなのです。

そう・・・信じられないし、信じたくもないことかも知れませんが、私たちには必ず、(強迫)神経症的な部分があって、絶えず何かに執着しているのです。

「バカいうな、オレには関係ない( ̄. ̄)」と云っている人も、必ず持っています。(^^:


でも、なんでそんなことが云えるのか?
みんな必ず・・・なんて、云い切れるわけないだろう?と、やっぱり思いますよね。

その理由は、固着です。

固着については、すでに説明済みですが、覚えておられますでしょうか?
私たちはオギャーと生まれたときから、いろいろなことを経験をします。
そしてそれらの経験に対して「良かったなぁ(^ー^)もう一度・・・」や、「辛かったなぁ、もう二度と・・・」と、さまざまな気持ち(感情)を抱きます。

そうした、感情の記念碑が固着であり、そこに「もう一度・・・(^ー^)」や「もう二度と・・・(++;)」の
こだわり(必要以上に気にすること)ができるのでしたよね。

そして、そのこだわりこそが執着であり、「こうあるべき」の強迫観念へと繋がります。
だから・・・私たちには必ず神経症的な部分がある・・・と、なるわけです。

もちろん、固着が生んだこだわりが、すべて悪者というわけではありません。
人間に、そうしたこだわりがあるからこそ、粘り強くひとつのことを達成することもできるし、その人だけにしかない独特な個性も誕生する。

つまり、こだわる内容が人によってそれぞれ違うからこそ、いろんな行動パターンも生まれて、「あれは誰それちゃんだ」と分かるような、個性(性格)となって現れてくるのです。

そして、これは後にも書きますが、そうしたこだわりや個性があるからこそ、それを活かした、さまざまな発明や、業績、記録を残すこともできるのです。

逆に云えば、もし人間に固着もこだわりもなければ、みんな金太郎飴のように、誰もみんな同じになって
面白くも、楽しくもない人類生活になってしまうことでしょう。(^^:

(金太郎飴にも、それぞれ違いはあります。これはモノの例えです。と、先にツッコミ防止^^;笑)


と、そんなわけで、人間みんな、固着と、こだわりと、神経症的な部分を持っているわけです。
そしてその固着とこだわりの大小(強弱)などによって、単に性格や癖(くせ)程度で留まるか、ひどく現れて神経症や、精神疾患になってしまうか・・・
いずれにしても、すべての人が紙一重に場所にいる、と考えて良いと思います。


では余談的に、発症こそしていないけど「それは明らかに神経症的」と分かるものを具体的に 書いてみたいと思います。

まず、その代表的なものと云えば、やはりタバコやお酒でしょうか。
そうした嗜癖(しへき、嗜好癖)は、口唇期に固着があり、その時期を恨んでか、懐かしんでか「やめるにやめられない」のだ、と云われています。

よく「口が寂しい」と云う、あれですね。

そして、そういう意味で「いつも何かを食べていたい」、「ついつい食べ過ぎてしまった」と云う、摂食にまつわる話もすべて、口唇期の固着への退行(こだわり)と云えると思います。

あと「やめられない」と云えばギャンブルがありますが、これはお金が絡んでいるという意味では、肛門期の排泄ですね。
溜め込んだり、出したり、その快感を楽しむあたりは、やはり肛門期への退行(こだわり)が関係しているのではないかと思います。

それと最近気になるのが、携帯電話です。
昔のことを思えば、連絡が取れずにイライラと過ごす必要もなく、とても便利な道具なのですが、老若男女、かた時もこれを手離せない人たちが多くいることを思うと、やはり神経症を考えずにはいられません。

たしかにそれは、新しいコミュニケーション・ツールなのかも知れませんが、人間関係や出会いを欲しているわりには、反対に深く関われない人たちで溢れてきているように感じます。

もっとも、だからこそ、携帯電話に依存してしまうのでしょうけどね。     

そして、これも時代なのでしょうか、街中でヘッドホーンをしている人を多く見かけますね。
1970年代にもウォークマンという携帯ステレオが大流行しましたが、あの時代の場合は、多分に「物珍しさ」「目新しさ」のようなものが先行していたように思いますし、持っていることは一つのステータスでしたね。

しかし現在の流行は、それとはちょっと違うような気がします。
それは、世の中に嫌気がさして・・・なのか、心を閉ざし、自分の世界に引き篭もってしまっていると云う印象が強いのです。

もちろん、最近のステレオは性能も良く、戸外で聴く音楽は格別ですから、そのすべてが心を閉ざしている、とは云えないのですが、少なくともそうした趣向(こだわり)を持った人(別の世界に浸りたい人)、それが心地良いと感じる人は、分裂気質タイプと云えそうな気がします。

そういう意味では、分裂気質タイプの人が増えたのかな、とも。
つまり、0歳児から預かってくれる保育所も多くなり、早くから離れてしまう母子や、自分の時間を持とうとするお母さんが増えてた、と云う世相の反映かも知れませんね。


と、タバコやお酒はともかく、携帯電話や携帯ステレオは嗜癖や癖なの?と思われるかも知れませんね。

しかし「手離せない」という意味では、同じだと思います。そして、何事も度を越せば、やはり神経症的な部分を感じます。

もっとも、そうした行為をすることによって症状を防いでいる(代償になっている)とも云えるので悪いとばかりも云えないのですが、反対に、そうした行動の中に症状が隠されてしまうと、ある日突然に発症と云うこともあるので「ちょっと変だな」といつもと違う自分を感じたら、早めの手当てが大切だと思います。

     
そのほか、何でも心配のタネになってしまったり、何でも自分に結び付けて考えてしまったり、怒りぽかったり、凝り(こり)性・・・のめり込む性質なども、神経症的なこだわりと云えますね。

もちろん、これらも度を越さなければ、ただの「心配屋さん」「怒りんぼうさん」で済むのですが、過度になると何かしらの症状を疑わなければいけないのかも知れません。

しかし、仮に度を越しても、その方向性によっては、むしろその人の助け(プラス)になる場合だって珍しくはありません。それは何でしょう?(^^)

と、突然クイズです。(^o^;

と云うわけで、(笑)    
いままでが『陰』の神経症的な話題とすれば、こんどは『陽』、、明るい話です。

しかし、神経症的に明るい話題などあるのか?ですよね。でも、あるのです。
神経症的は何も、悪いこと、ばかりではないのです。

たとえば、オリンピックで活躍した選手たち、そして野球で云えばイチロー選手たちは、私に云わせれば立派な神経症です。選手のみなさん、ごめんなさい。

しかし、あのこだわり方や、練習量は、フツー(普通)ではありませんよね。
もちろん、だからこそ、あれだけの活躍や成績が残せるわけですし、私たちに感動を与えてくれるのです。

スポーツ選手に限らず、私たちに感動を与えてくれる人たちは、言葉は悪いですが、みなさん、際立ってフツーじゃないわけです。
フツーじゃないからこそ、私たちはその世界に引き込まれて、感動もするのですよね。

つまり、心配性や、すぐに熱くなる性格も、その対象やエネルギーの向け方によっては素晴らしい才能の開花になるわけですね。

とは云っても「そんなのは運もあるし、世の中では一握りの人間だけだろう」と思われるかも知れません。でも事の大小はあっても、日常の生活や仕事などで、自分の性格を活かす道はいくらでもあるはずなのです。
「みんな病気です」と云われて凹んでしまうか、「よし、役に立つ病人になってやるぞ」と奮起するか、 案外、明暗の分かれ道は、そんなところにあるのかも知れません。

 


 

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