前の章で、「その部分の自我が育っていない」という云い方をしました。
はて? 自我の「その部分」とか「あの部分」とか・・・ 自我って、そんなにいろいろあるの?
って話になると思いますので、その話をしてみたいと思います。(^-^;
簡単に云いますと、下の図のようなことなのです。
もし、自我に形があるとして、その理想が『まんまる』の正円であるなら、私たちの自我は、どこかしら凹んだ、ジャガイモのような形をしていす。
たとえば、「人間関係は、まあまあだけど、社会的ルールが苦手」とか、人間誰しも、得意な部分と不得意な部分ってありますよね。
つまり自我と云うのは、どれか一つを指さして、「これ!これが自我」と云うものではなく、生きていくうえでのさまざまな部分が一体となったものと考えて頂いて良いと思います。
ですから得意、不得意(成熟、未成熟)な部分が、偏差値などを表すレーダーチャートのようにいろんな形になるわけです。
もちろん自我は成績や優劣ではなく、その成熟、未成熟を含めたすべてが『個性』となるわけですから、
レーダーチャートという例えは、たとえ例えであっても好ましくないのですが、どんなふう?と訊ねられた場合「まあ、こんなふうです」となりますので、お許しください。(^-^;
さて話を本題に戻しましょう。
そんな感じの、ジャガイモのようないびつな形ですから、ある一面を取り上げ「この部分」と云うような表現をしたわけです。
人間は、ある一面だけでは計り知れない、さまざまな能力を持っていますからね。
ですから未成熟と思われる「この部分」があったとしても、それが人間の優劣を決めるものでは決してありませんから、劣等感など持つ必要もないのです。
でも、しかし、どうしても持ってしまいますよね。
「自分は、人間関係が不得意(未熟)である」とか、
「社会生活に馴染めない」とか。
しかしこれも考えようで、だからこそ劣等感を補おうと頑張ることもできるのではないでしょうか。
そして、その頑張れたぶんだけ、多くのことを学べ、
他の自我(能力)も伸ばして行けるのだと思います。
そう考えれば一病息災ではないですけど、多少の凹みがあって、劣等感があったほうが、良いのかも知れませんよね。
何も学べず終わってしまう人生よりは。(^^)v
そして、思い悩むことがあっても負けずに頑張る、と云うことが、結果的に自我全体の底上げ(人間的な成長)に繋がるのだと思います。(^^)
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