性格形成(1) 序章

さて、この第二部では性格形成についての話です。

性格形成とは文字通り、性格が形づくられること。
とくに幼少期で形成される性格の基礎のことを
云います。

三つ子の魂百までも、雀百まで踊り忘れず・・と云わ
れるほど、人間の性格の基礎は、いちど形づくられて
しまうと、動かすことは難しいのですが、

むしろ簡単に動かせるようでも困るのです。(^^:
なぜなら、家と同じ基礎部分ですから、
いつもグラグラしているようだと、不安定で安心して
住めませんからね。(汗)

しかしそうなると、一度決まった性格は
「一生、変わらないの?」と心配される方も多いの
ですが、固定されるのは基礎部分だけですから、
その後をどうコーディネートし、変えていくかは
「あなた次第」と云えます。

ただ、その性格の基礎のカタチによって、
「変えやすい性格」「変えづらい性格」が分かれて
しまうのも事実ですから、できれば、なるべく
素直で柔軟性のある基礎が望ましいですよね。


性格形成・・・そういう意味でも、興味深いテーマと
云えるのではないかと思います。

さて、これからその性格形成の話になるわけですが、
よく性格が良いの、悪いの、ヒネクレテルだのと云い
ますけど、
「じゃあ、そもそも性格って何なのさ?」
ですよね。

まず国語辞典(三省堂)によりますと、
『物の考え方、感じ方や行動に特徴づけられる、
その人独特の性質(の傾向)』
とあります。

そして、心理学関係の辞書(ミネルヴァ書房)では、
『個人の行動的特徴、あるいはその行動特徴の背景に
ある感情や意志の比較的一貫し安定している傾向を
示す個人差の説明概念である』
と、あります。

さすがに心理系の辞書のほうが、詳しく書いてあり
ますが、どちらも同じこと。つまり、
感情面からくる比較的一貫した、その人の行動と
思考のパターンが、性格というものである、
と云うことですね。

そして、ここで大事なのは、
その『一貫性』と『度合い』です。

性格の場合、ある程度の一貫性が持てないと、掴み所
のない不安定な言動で信頼を失ったり、自分で自分を
見失ってしまう危険性すら出てきてしまいます。

反対に、一貫し過ぎてしまいますと、こんどは自由度
が奪われて、融通性を失い、社会生活が辛いものに
なってしまいます。(^^;)

そうしたことから、性格は、
『ほど良い感じの一貫性』が望ましいですよね。

しかし果たして、そんな理想的な性格など形成する
ことが可能なのでしょうか・・・

次の章から、精神分析学が考える性格形成を紹介させ
て頂きながら、そんな理想も探求できたら、と思って
おります。

※「この時期、こういうことがあると、こういう性格
になりやすいですよ。のちのち、こういう問題に突き
当たるかも知れませんよ・・」
だから「こういう点に注意してみてください」と、
お節介な育児論のようなものになるかも知れませんが、
いま育児の真っ最中の親御さんや、これから育児をさ
れる親御さんの、少しでもお役に立てればと思って
おります。
そして、育児に関係のない方でも、ご自身の幼少期と
照らし合わてみたり、幼少期を振り返るキッカケにし
て頂ければ、今後どのように「自分と向き合えばよい
のか」などの参考になるのではないか、と筆者は密か
に願っております。(^^)


では、その性格はどのようにつくられで行くのかを、
ここで簡単に押さえておきましょう。

で、いきなりクイズです。笑

私たちが何かを考えたり、行動に移したりするとき、
必ず伴うものがあります。それは何でしょう?

それは、
「これは気持ちがいいから、またやりたい♪」
「これは好きになれないから、もうゴメンだ(ーー;)」
という感情(快・不快の気持ち)ですよね。

私たちは感情によって、それをおこなったり、やらな
かったり、あるいは、嫌でも義務を伴うときには、
ブツブツ云いながら(笑)、それをやるわけです。


まあ、性格形成されるのは乳幼児期ですから、何かを
する義務は無いにしても
「またやりたい」や「もうゴメンだ」の感情
(ここでは大別して、快か、不快か)
を持つわけで、それが満足、不満足(欲求不満)
云う形で心に刻まれて行きます。
    
あるいは、心に刻まれないまでにも、人間、心地よい
ものをたくさんやりたいですし、不快なものは遠ざけ
たいものですが、そうした良い悪いの嗅ぎ分けをして
いるうちに、そこに一つの嗜好(好み)のようなもの
ができますね。

そうした好みのパターンが性格形成
と、ここでは考えておいてください。

とくに、満足が大きければ大きいほど、不満足が大き
ければ大きいほど、そこに大きなこだわりができます。
満足に対しては「もっともっと」、不満足に対しては
「満足したい」ことへの強い憧れですね。
そうしたものが心に刻まれれば、その人の思考や、
行動パターンに大きく影響することは云うまでも
ありません。 
   
※しかしだからと云って、不快・不満足にならない
ように「子育てしよう」などとは思わないでください。
それは不可能ですし、仮に可能としてもそれは過保護
で、「大きなお世話」になりかねません。(^^:
人間は不快・不満を覚えてこそ、快や満足を感じる
(知る)こともできます。また、不快や不満足にも耐え
る力もなければ、生きることすら危うくなります。
まあ、人生で初めて知る試練とも云えますが、
「一緒に頑張ろうね」と見守ってあげてください。


では、精神分析学では、性格形成をどのように考えて
いるのでしょうか。

小難しい用語で云えば精神性的発達

つまり、エスから発する本能的欲求の発達の過程なの
ですが、これらの発達過程の中の、身体の中の3つの
粘膜(口、肛門、性器)で得られる性的な粘膜快感が
性格形成に大きく関係すると云われています。

つまり、先ほど述べた快、不快の気持ちは、すべて
性的なものであるから、発達段階での性的快感が
性格形成の元になる、という考え方ですね。

「えっ?なにそれ?」と思われた方も多いかも知れ
ませんが、それも無理はありません。
同じフロイド派の中でも、この性格形成論について
は異議を唱える学者も少なくないのです。
つまり、「性的なものを性格形成に当てはめようと
する」ことへの批判ですね。

しかし、人間の快、不快の感情が性的であることも、
エスと云うエネルギー源から発せられていることを
考えれば、特別に不思議なことではありません。

なぜって、人間の本能がいくら壊れていると云っても、
本能の基本である生存と生殖の機能はあるわけですか
ら、エスが発するエネルギーにそれらの要素が混ざっ
ていなかったら、かえっておかしいですよね。(^^:

それに、人間の性的快感が、単に生殖を繰り返させる
為だけのものであれば、たしかに彼の性格形成論は、
ただの無謀なこじつけと云えるかも知れません。

ですが、第一部の『人間は本能の壊れた動物』でも
述べましたとおり、人間には心という、他の動物の
本能とは異なった感情の世界があります。

つまり、性的快感をただ
「気持ちがいい」「また性行為がしたい」
と感じるだけであれば、性格形成には、到底 結び
つかない話かも知れませんが、

その快感から(相手や物事に対しての)深い愛情や、
心地よさのようなものを感じ取って行くとすれば、
当然そこから、喜怒哀楽などの情緒的なことや、
行動パターン(方向性)が決まってきますので、
性的快感も単なる性行為の為だけでは無いことは、
お分かり頂けると思います。

※他の動物も行動は本能の生存と生殖に基づいた
『快・不快』で動いているはずです。つまり快の
「またやりたい」と、不快の「これは危険そうだ」
の嗅ぎ分けで「GO」「STOP」を決めている
わけです。人間の場合そこに『情緒的な気持ち』が
加わりますから、同じ快や不快でも、他の動物とは
違ってくるのは当然ですよね。もっとも人間でも
快・不快だけの動物的に動く人もいますけど、そうい
う人は見た目も言動も、俗に云う「ワイルドな人」
と云えますね。(^O^)どーだ、ワイルドだろ?(笑)


さて、粘膜から得られる快感(粘膜快感)は、
下の図にある、口唇期、肛門期、男根期、潜伏期、
そして性器期の5つです。


これらの時期が、どのように性格に関わってくるのか
は、これからの章で、個別に紹介させて頂きますが、
この5つの段階の中で、性格形成の基礎に深い関わり
を持つのは口唇期、肛門期、男根期の3つの時期
と云われています。


さて、ここで疑問を持たれた方が多いのでは、
と思います。

性格形成が快と不快に関係すること、
その快・不快が性的快感に関係すること、
まあ、この2つは理解できるとしても、

そもそも、産まれて間もない赤ちゃんに、
性的快感(性欲)などあるのか? と。(^^;)

そうですね。もっともな疑問だと思います。

しかしフロイドは、すべての快感、「気持ちがいい」
と感じる感情の根元は性的快感であり、乳幼児にもち
ゃんと性欲はあるのだよ、として学説を曲げようとは
しませんでした。

このことは、これから読み進めて頂くにあたり、大切
なことですので、ここで簡単に解説しておきたいと
思います。


まず性欲は、子孫を残そうとする欲求、つまり動物で
云う本能ですから、赤ちゃんといえども、産まれつき
持っていないと、かえって説明がつかないわけです。

生まれて十数年を経た思春期になって本能が芽生える、
では、ちょっとマズイですからね。(^^;)


そして、快感はエスの得意とする快楽原則、すなわち、
性の欲動が根底にありますから、気持ちよいと感じる
快感と、性的快感は同質である、という図式が成り
立つわけです。


しかしフロイドは、
その性欲を、はっきり2つに区分しています。

ひとつは、幼児性欲
これは文字通り、幼児が持つ性欲で、以後、年齢と
ともに段々と薄まって行きますが、おおよそ思春期前
くらいまでの年齢が、この幼児性欲です。

もうひとつは、性器性欲
これは思春期以降の一般的に云われる性欲で、性器の
結合。つまり、生殖を目的とした性欲です。

後者の性器性欲のほうは、おおよそ見当がつくと思い
ますが、問題は前者の幼児性欲ですよね。
なので、幼児性欲について、さらにもう少し解説して
おきたいと思います。


赤ちゃんが恍惚とした表情で、全身を震わせながら、
お母さんのオッパイを吸う姿には、母親からの深い
愛情を受け取っているという、心地よさ(という快感)
があるようにみえますよね。

それが幼児性欲なのですが、
その対象・・性欲の向かう先は、あくまでも自己、
つまり、自分に向かっています。

これを、自体性欲と呼びます。
※補足 自己愛・ナルチシズム

つまり、性器性欲は性交する異性が対象ですが、
幼児性欲の場合、自分自身に対する性欲なのです。

これはエスが自分と他のものとの区別がつかない時期
と重なりますので、幼児性欲にも
「自分のことしかない」
と覚えて頂いて良いと思います。


そしてやがて、成長するにつれて、快感の対象も性器
に集中するようになり、性欲の対象も自分から他者へ
と向かい、いわゆる性器の結合が目標になって行く
わけです。
    
フロイドは、このようにして、その欲動を発達段階に
分けたわけです。このことは、下記でもう少し触れ
ておきたいと思います。

     
少しご安心頂けましたでしょうか。(^^;)
そして、フロイドの学説についても、ご理解頂け
ましたでしょうか。
これからの章は、上記のことを踏まえながら、
さらに詳しくお話しさせて頂きます。


フロイドは人間の性衝動(性欲)を、
人間の性が、男と女という2つの半分に分割され、
それが『愛』という衝動で 再びひとつになろうと
している姿である、、、、
と説明しました。

つまり、これを訳すなら、

人間はもともと、
男も女も関係なく両性のものであった。
それが誕生のときに、男女に別れてしまった。

だから人間は性衝動(性欲)を持つ。

性衝動によって、別れ別れになった自分の片割れと、
ひとつになろうとしているのだ・・・

と云うわけです。
なんともフロイドらしい詩的な論理だと思います。
(^ー^)


しかし私たち人間が、そうした自分の片割れと出会う
ためには、精神の発達段階という旅をしなければなり
ません。

他の動物とは違い、産まれてすぐに生殖するのは、
精神的にも、肉体的にも、まだ無理があるからです。

そこで神様は旅の友として人間に、3つの性感帯を
与えます。
それはこれからの章で詳しく述べますが、
口唇(くちびる)、肛門、そして男根(性器)です。

赤ちゃんはまず、くちびる(口唇)という性感帯に出会
い、自分を愛すること、そして自分を愛してくれる人
を愛することを覚えます。

それから肛門という性感帯とも出会い、悲喜こもごも
な、人生のなんたるかを体感します。

そして男根(性器)という性感帯と出会い、恋する切な
い気持ちを覚え、潜伏期という冷却期間を経て、
別れ別れになった自分の片割れと、ひとつになろうと
する性衝動(性欲)を持つようになります。



つまり、性衝動(性欲)は、3つの性感帯を合体させ、
できあがった性の完成形(旅の終着駅)みたいなもの
ですね。

そして、この旅によって、私たちは精神的にも大人
(一人前の人間)に成長して行くわけです。

と、私も少し詩的、文学的な文章にしてみました。
^^ゞぜんぜんなってない?(笑)

しかし、『性格』に性の文字が使われて(充てられて)
いるのも、 性格が、こうした性の旅によって、その
人の本質(性質)が醸し(かもし)出されたもの と考え
れば、何となくうなづけるような気がしませんか。(^^)

 


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