少し前の章(性格の話)で「頑固であることを誇りに思いましょう」と述べました。
誤解が無いように、その補足をしておきたいと思います。
頑固がすべて良いというわけではない、という意味で。(^^;)(汗笑)
さて、「自分の気持ちを通す」という頑固さにも、2通りあると思います。
その1つめは、周囲が困ろうがどうであろうが、自分の気持ちを通そうとする頑固です。
つまり、自己中心的、わがままな頑固さ、ですね。
そしてもう1つが、自分の考えが正しいか、間違っているかは別として、でも、考え抜いた上で「それが最善である」と云う信念を持っての頑固さです。
つまり、良かれと思う頑固さ、ですね。
この2つを比べて頂ければ、もうお分かりと思いますが、2つめの「良かれと思う頑固さ」のほうが、人間的にも大人ですよね。
反対に、1つめの頑固さは、俗に云う「我(が)が強い」、「我(が)を通す」という部類で、我(が)は、『われ』であり『わたし』と云う意味ですが、実際『わたし』だけしか無い状態です。
ややこしいですね。(笑)
つまり、『我』は、まさしく『わたし個人』ですが、人間社会と云うものは『わたし』ひとりでは、生きては行くのは難しい。やはり、『わたし』がいて『あなた(みんな)』がいてと考えることで、お互い共存の道も開かれるわけです。
ですから、我の強い頑固さは嫌われる、と云う図式になるのです。(^^;)
自我と我・・・は、似て非なるもの。
2つの言葉を並べてみても、『我』には『自』と云う文字が欠けています。
『自』つまり、『自ら(みずから)』と云う主体性の部分です。
辞書を引きましても『自我』とは、
『知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分』。
心理学では『行動や意識の主体』と書かれています。
つまり、自分自身が、自分自身であることをシッカリ認識し、行動も自覚して行えることが自我なのです。
逆に云えば、自分でありながら自分が無く、なんとなく流され、行動にも主体性が無い場合には、
まだ自我が育っておらず、我の状態と云えるのかも知れません。
もっと分かりやすく云えば、
わがままな自分自身の我を上手にコントロールしてこその自我なのです。
ですので、頑固であることは『性格の話』でも述べましたように、それだけエネルギッシュであり、喜び誇るべきことなのですが、その中身を考えることが重要になってくるわけです。
そして、我(われ)を省みる(かえりみる)ことが出来ることが常に自動的に行えるようになれば、人間関係や社会との繋がりが円滑な自分(自我)に、自ずから(おのずから・自然体として)成れるはずです。(*^-^)
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