神経症と不安(3)神経症の不安

さて前章では、本能不安、去勢不安、超自我不安と、基本的な3つの不安をみてきました。
「ああ、なるほど~、不安とは そういうものなんだ」と、ガッテンして頂けましたでしょうか?
って、これはもう、いいですね。(^^;)(汗笑)

ともあれ私たち人間は、そうした不安とともに、毎日を過ごしているわけです。
そしてそれが、ある日突然のように神経症的な不安に襲われ、発症したりするのですが、それはどうして起こるのでしょうか。この章では、そんな話を書いてみたいと思います。

本能不安にしても、そして去勢不安や超自我不安にしても、自我は、ただ、それを(手をこまねいて)呆然と見過ごしていたわけではありません。
もちろん、不安が起こらないように必死に(防ごうと)活動しています。
そしてその活動が、すでに述べた防衛機制です。

防衛機制の元々は、エスの欲求を満たす為のものですが、結局最終的には、自我自身が不安にならない為の、防衛手段なのです。

※だから防衛機制と呼ばれるわけです。とても単純ですね(^^;)

しかし、前にも述べましたように、エスの出す要求は元々ワガママで強大です。しかも、年齢を重ねるごとに、その内容の難易度も高くなります。
自我は、そうしたエスとの果てしない闘いの中で、自らを成長させ賢くなるわけですが、どうしてもエスの要求とスピードに追いつけなくなるときがあります。

そう・・・自我は必死に立ち向かおうと、あらゆる防衛機制を駆使するのですが、防衛機制の元々が「とりあえず」のハリボテ対策ですから、当然だんだんと
エスの要求に立ち行かなくなってくるわけです。

このときもし、自我の力が、エスと同等か、それを上回っていれば、まだ何とか持ち堪え(こたえ)られたのかも知れませんが、自我は限界を感じると、最終的手段(最後の防衛機制)として退行を使います。

これも前(『退行と発症)』)で述べましたように、退行は他の防衛機制と違い、自分の内部(精神内部)で解決しようとし、自我自身が変化してしまうというある意味、特殊な防衛機制です。

つまり、「もうダメだ」と思った自我は、自分の身を犠牲にして、罪を償うように救済を求めることが退行であり、神経症の発症というわけです。

ですから、神経症の発症直前に起こる不安は、いわば、自我の悲鳴・・・もっと云えば断末魔の叫び、なのかも知れませんね。

さて、そうした流れから不安の最後は、神経症的な不安と云う話で締めさせて頂きます。

いままで述べてきた不安は、ある意味、心が正常に働いているときの、誰にでも起こる不安です。
つまり、具体的な危険を察知して自分を守ろうとする不安ですから、それを現実不安と云います。

それに対して、これからお話する不安は、現実的には危険ではないのに起こる不安という意味で、 神経症的な不安(以下、神経症的不安)と、名づけられたもので、神経症者の感じる不安もコレになります。

神経症を経験された方ならお分かりだと思いますが、神経症で起こる不安は、通常の不安とはまったく別物で、 天地がひっくり返るのではないか・・・と思うくらい、居ても立っても居られない異様な気分になりますよね。

それはなぜかと云いますと、通常の不安(現実不安など)は、いまこの瞬間(現実)や未来に対する不安ですが、神経症的不安は、過去にできた固着へ後戻り(退行)して引き起こされる不安。つまり過去の不安の再現、フラッシュバックですね。

もちろん症者自身は、その不安が何処からきた何ものであるかも知りませんが、その不安の凄まじさに身動きがとれなくなってしまいます。

ではなぜ、そのような不安が起こるのか?ですよね。
これも前章(『退行と発症』など)で述べました通り、現実で何らかの問題に突き当たったときに、 自我はさまざまな方法で、問題を解決し、現実不安を打ち消そうとしますが、 そこでカタがつけられなかった場合に、退行して神経症的不安に至るわけですが、、

「何もそこまで自虐的に自分を追い詰めなくても・・」と思われるかもしれませんが、自我にとっては現実の問題(や苦悩)が解決困難で、すでに白旗をあげたあとの『現実回避』の最終手段が「この不安」つまり神経症の発症なのです。

それは見ようによっては自虐的、自罰的ですが、強烈な不安によって身動きがとれなくなることで、苦しい現実から回避できるわけですから、自我にしてみれば、我が身を差し出しての防衛機制と云えなくもありませんね。




尚、神経症的不安と呼ばれるものには、下記のような種類があります。



 以上が、神経症と不安についての話ですが、まだまだ書き足らない説明不足があるように思います。
ですが、以上のことから考えても、神経症の克服と予防に大切なのは、自我の強化(自我の力を高めて行くこと)以外には皆無ではないかと思います。

 


余談として・・・
     
さて、神経症と不安について、は如何でしたでしょうか。不安は神経症以外のことでも、私たちにさまざまな情報を投げ掛けてくれるとても貴重な情報源です。

もし不安という不快な感情が無ければ、私たちは危険にさらされても、それに気づくことができずに、場合によっては命を落としてしまうこともあるわけですからね。

たとえば、お腹が空いたという飢えの不快(不安感)がなければ、栄養失調になってしまいますし、道路を歩いていても、危ないという危機的な不安感がなければ、事故に遭ってしまいます・・・

もちろん、そうした不安感も、感じる人によってさまざまなので、すべてが危険信号になるとは限りません。と云うより、その人がどういう事柄に強いこだわり(関心)を持っているかによって、不安の持ち方も、その度合いが違ってくることは仕方がないことです。

それよりも、適切適度であれば自分を守ってくれるこのセンサーが、生活の妨げになるほど狂ってしまうことのほうが問題ですよね。
それだけに乳児期から成長段階での不安を正しく理解し、接してあげることが大切なのかなと思います。

それは本編にも書きましたように、不安の原点は不安になる自分が不安なのであって、そこにあるのは(漠然とした)心細さです。

ですから、そこで重要な役割りを果たせるのは、母親や、父親という、外部での助けなのではないかと思います。
たとえば、子供がその不安から、母親にベッタリくっついているとき、それは「心細いのだ」と理解して、やさしく接してあげると安心できます。

もしそこで「何をビクビクしてるの?しっかりしなさい!」などと励ますつもりで云ってしまうと、彼らは内部の不安を処理できず、すっかり内気な臆病さんになってしまうか、神経症などの要因をつくることになってしまうわけです。

よく不安がる子供に「根性が足りない」などと云って、わざと不安な状況に追い込むようなことをする親御さんがいらっしゃいますが、まだ心が完成していない子供には酷なだけで、余計に怯えた子になってしまいます。(^^;)

それよりも、この時期大事なのは「大丈夫だからね」と云う安心感を持たせてあげることだと思います。
そうすれば子供はそれを心の拠り所(よりどころ)にして、いろいろな事に興味を持ち、(初めは)近くに
親の姿を見ながらも冒険が可能となって、自然と「これは大丈夫」「これは危ない」を覚えて行けるので、
自我の成長にもなりますし、いずれ不必要な不安を抱かずに済む、と云うわけです。


さらに余談ながら(^^;)・・・よく「抱き癖」が話題になることがあります。
要求に従って抱きすぎてしまうと、自立が遅れる、甘ったれた性格になる、などの理由で「抱きすぎるのは良くない」と云うことらしいのですが、私個人としては思う存分に抱っこしてあげてください派です。

今まで述べましたように子供はとても不安な状態が多いので、スキンシップを求めます。そんな彼らの要求(不安を取り除くこと)に応えてあげるには、やはり抱きしめてあげることがイチバンではないかと思います。つまり「大丈夫、あなたは私が守ってあげるからね」と云う安心感を肌で感じさせてあげることのスキンシップですね。

もし、ある程度の年齢になっても、甘えて絡みついてくるようなことがあるとすれば、それは抱き癖と云うよりも、むしろ安心感の不足や、愛情飢餓(まだ愛情に飢えている)の状態を考えてみるべきだろうと思います。

子供は充分な安心感と、愛情確認ができないと、自我の成長も停滞して、いつまでも愛情を求める幼児のまま留まろうとするのです。
それは思春期を過ぎても、社会人になっても親離れできない場合にも云えることだと思います。
 
もちろんだからと云って、社会人になって抱っこは、別の話ですけどね。それはそれで、年齢に即した愛情の与え方で接してあげるべきだと思います。

ともあれ、相応の年齢で抱っこが卒業できるようにしてあげる為にも、思う存分に抱きしめてあげて欲しいと思います。
子供は抱っこ(愛情確認)に満足すれば、「あれ?もういいの?もっと抱っこしていたいのに」と、親のほうが寂しく感じるくらい、自然と親の腕の中から離れて行きますから心配はいらないです。(^^)    


不安についての関連記事をブログに書きましたので宜しければご覧になってみてください。

 



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