回復への扉 過去との会話

さて、神経症についての最終章は、「それでは、どうしたら良いのか?」という話です。

結論を先に申し上げるなら、自我を強くすること、だろうと思います。

つまり、神経症は自我が弱い為に、現実の生活に適応しきれず起こるのですから、その自我を強くすること・・・つまり育て直しをしてあげることで、症状を治めることも可能になるわけです。

そして、これと同じことが、神経症にならない方法にも云えると思います。

自我が年齢相応で、バランスさえ良ければ、大抵のことは乗り越えることが出来ます。
つまり、現実に踏みとどまって問題解決も出来るわけですから、不安も起こしづらく、神経症の要因となる退行も防げることになります。

もちろん、これは理屈の上であり、まだすべての解決にはならないのですが、まず元を正すという意味でも、自我の強化は必須であろうと思います。


ではそうなると、その自我を強くする方法とは何か?ですよね。
それには、この第三部の『はじめに』で述べました森田療法が有効だろうと思います。

つまり「いますべきこと」を、失敗しても間違ってもいいから、「とにかくやる」という姿勢ですね。
そうした行動を続けることによって、解決力や社会性と云った(現実に即した)自我を育てて行けるわけです。

軽度の神経症であれば、この自我を強める方法で、じゅうぶん改善できると思います。

しかし、これも『はじめに』で述べましたように、「分かっているけど、どうしても改められない」と云う部分が人間にはありますので、重度の場合、あるいは神経症の根本を断つと云う意味では、無意識に踏み込んだ改善も必要になってくると思います。


ではその無意識の部分を、どう解決すれば良いのか?     
それは過去との会話だと私は思います。
どういう意味かと云いますと、過去を振り返ることで、過去に対する気持ちを変えて行くことです。

どんなに頑張ったところで、過去の事実を書き換えることはできません。
しかし、「こんちくしょう」と思う過去への気持ちを、「まあ、あれも仕方ないかなぁ」と塗り替えることは可能ですし、気持ちが変わることで、抑圧を鎮め、退行を弱めることが期待できるわけです。

しかし『過去との会話』とは云っても、無理矢理に無意識を引き出そうとすることではありませんし、その必要もありません。

と云うより、引き出そうと思っても出てこないのが無意識ですし、どの過去が原因なのかも分からないわけですから、闇雲や強引な方法をとることは、かえって危険になります。

ですので、そうではなく、いまの現実の「やるべきこと」をする生活の中で感じることを、反芻(はんすう)してみる・・・つまり、気持ちの中に留めて考えてみること、が過去との会話と考えて頂ければと思います。

ですから、過去と云っても、数10年前の過去もあれば、「今さっき」の過去もあるわけです。

実は、そうした過去との会話は、改めてこんな記事にしないまでにも、毎日の生活の中で、意識、無意識に行われていることなのです。

たとえば、何かをしてるときに、ふと「ああ、これは、あのとき、誰それが云ってたことだな」と思い出すことがありますよね。

何かを思い出すと云う事は、それ自体に何か意味があると云うことで、無意識にある抑圧にヒット(過去と会話)している可能性があるわけです。

あるいは、何も思い出さないまでにも、わけもなく、ふと軽い気持ちになったり、反対に不快や憂鬱な気持ちになったりすることもありますよね。

人の気持ちは日々に移ろう(変化する)と云いますが、そうしたことも、無意識の中の何かが動いている(過去と会話している)と考えることが出来ます。

また、たとえば、自分がある年齢に差し掛かったとき、「ああ、親はあの時こうしたけど、親の気持ちは、今の自分の気持ちと同じだったのかもなぁ」とか、
あるいは、自分が子供を持ったことで、「あのときは親を恨んだけど・・・」と思い出すことも、過去との会話です。

そして、そんな昔のことばかりではなく、毎日の生活の中での「ああ、なるほど」や「やったね♪」の納得や感嘆などでも、気持ちの変化や、無意識の癒しに繋がることは少なくはないのです。

しかしこれらも、現実の行動を改めることで、感じられることだと思います。
もちろん、ダラダラと過ごしていても感じることがあるかも知れませんが、やはり、充実感や達成感を感じているか、それとも劣等感や罪悪感で押しつぶされそうになっているか、では感じる気持ちが随分と違ってきてしまいます。

もしかすると、後者(劣等感や罪悪感)では、もっと『恨み節』になってしまうかも知れませんからね。

ですのでやはり、自分が建設的、前向きであることが望ましいと云うことで、森田療法的な行動がお勧め、と云うわけなのです。

つまり第三部の冒頭『はじめに』で、過去と現在、無意識(精神分析的な考え方)と意識(森田療法的な考え方)の両方が大切と云った意味はここにあります。なんたって、過去があっての現在、無意識があっての意識。
そして何より心と身体は繋がっていますからね。(^^)



日常的に行われている過去との会話・・・では、なぜそんなことをわざわざ回復の入り口にしたのか、と云いますと、神経症になりますと、そうした変化(心の動き)が、とても苦痛になって、ついつい避けてしまう・・・
つまり、変化の無い世界に引き篭もって、回復を自分から拒んでしまうのです。

その理由はおそらく、別の章でも述べました疾病利得の治りたくない心理があるのかも知れません。

何より、傷を治すには膿を出す為にメスを入れたほうが良いとは分かっていても、人間どうしても痛い思い、辛い思いはしたくはありませんからね。

しかし、そうした道を踏まなければ治らないのは、身体の傷も、心の傷も同じなのです。
ですから、ここであえて、前向きな生き方を心がけましょう、不快な気持ちにも耐えてみましょう、

と提案させて頂いたわけです。



さて、簡単な説明ではありましたが、過去との会話、ご理解頂けましたでしょうか。
では、もう少し具体的に、どんな方法があるのかを考えてみましょう。

その前に、いまの時代と云うことについて、触れておきたいと思います。

以前ですと、神経症は比較的弱年齢者、つまり自我がまだ成長途上な若い人に多く、三十歳くらいまでには自然に治まってしまう場合が多かったようですが、現代では発症時期もまちまちで、高年齢での発症も珍しくなくなってきました。

おそらくそれは、平均寿命が延びたとこや、学校教育の期間が長くなったこと、つまり就職や結婚などの社会人としてのスタートが(昔に比べ)遅くなったことの影響があるように感じます。

裏を返せば、現代青少年の生育環境は、自我の成長にとっては好ましくない環境なのかも知れません。

そして社会に出ても、なんとなく生きられてしまう世の中ですから、学生時代の延長のようになり、なかなか自我の成長が完成できない、という図式があるように思います。

それに付随して、社会構造が複雑となり、それに乗り遅れない為、追いつく為に、親が必要以上に神経質となり子供を追い詰める結果、心の傷(固着)を増やしてしまい神経症や、心の病にしてしまうという図式もあるように思います。(もちろん、それらを親が悪い、と云いたいわけではありません。
親にしても一人の人間として、そうした社会構造の犠牲者の一人ですからね。

ともあれ、現代は自我が育ちづらく、過去を清算しづらい時代ですから、ある程度意識的に自分自身の心を成長させなくてはいけないのかも知れません。

たとえば、今は何でも既製品で間に合ってしまい、自分で作るという楽しみや達成感が薄いですよね。
ですから、食べ物にしても、たまには食材から調理してみるとか、本棚や椅子にしても完成品を買い求めず
図面を引いて材料から製作してみる、などの創意工夫も自我の刺激には有効だと思います。

それは、自分から進んで得ようとする、という意味で、親から与えられたものだけで生きてきたことからの決別(独立)があります。

そして、イメージ力(創造性)を養うことで、「自分が先々何をすべきか」が見えてきますから、積極的にもなれますし、失敗要素をあらかじめ想定できることで、不要な不安に陥ることも防げます。

また、造り出すという作業によっての忍耐力や、完成によっての喜び(達成感)が、自信に繋がります。
自分を喜ばせてあげる、そして出来た自分を誉めてあげる・・・
そうしたプラスの感情が、自我の成長に一番大切なことなのです。

本当は、これらのことは、少年期に自然と身に付くことなのですが、今は何でも既製品があり、親が与えてくれるので、そうした機会を逸していたのですよね。

なので、その昔をやり直し、本来の心を取り戻すことが、自我の成長に繋がるのだと思います。


また、過去との会話を、もう少し積極的に行う方法として、日記を書いてみることをお勧めします。
つまり、自分の心にあることを、心の中だけに留めず、文字という形で自分の外に出すことです。

心の中にあるうちは、整理が付かずイライラが続いたり、自己完結(すべて自分の中で了解してしまう)して、独りよがりになることが多いのです。

しかし、自分の気持ちを外に出してみると、客観性が生まれ「これは良いな」「これはマズいな」とそれだけで整理がついたりします。

もちろん、誰にか話を聴いてもらう、と云う事が一番良いのですが、自分の気持ちを赤裸々に語るとなると最初は抵抗もあるでしょうし、聴いてくれる相手もなかなか居ないという場合も多いでしょうから、まず、日記などで自分の気持ちを書いてみると良いと思います。

しかしそれでは、過去との会話にならんだろう? という疑問が残りますよね。

はい。話は続きます。(笑)

そうした日常を書き進めて行きますと、心は過去に繋がっていますから、「あのときは、こうだったなぁ」
など、いろいろな事が思い出されてくるわけです。

それを日記に書き留めるもよし、書き留めず思うだけで終わらせるもよし、です。

仮に意識のうえで「あのときは、こうだったなぁ」で終わってしまっても、無意識の中ではその過去の事実が揺り動かされていますから、それだけでも効果があると云えるのです。

つまり、心の引き出しを開けるだけで、そこに風通しが出来ますから、何もしないよりは、何かしらの変化が期待できるわけです。
    
もちろん、無意識は私たち本人にも、その中身は分からない世界ですから、仮に日記などで自分の気持ちを語っても、過去を思い出すことも、何らひらめきも出てこない事のほうが多いかも知れません。

しかし意識と無意識は確実に繋がっていますから、すぐに変化が現れなくても、「見えない部分で、無意識も動いているんだ」と信じて、日常的に自分の気持ちを言葉や文字にする習慣をお勧めしたいと思います。

 


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