神経症と不安(1)不安のルーツ(1)

前章まではリビドー、固着、退行という視点から、神経症をみてきました。しかし、神経症にはもう一つ欠かすことのできない要素があります。

それは不安について、です。

固着や退行は、私たちの気づかない場所で起こっている現象ですが、不安は神経症の兆候を知らせてくれる、唯一大切な手掛かりです。 
少々、内容がこみいっていますが、不安についてを知ることが、神経症の克服や予防に役立つのではないかと思います。



さて、不安の話のはじめは、不安のメカニズムと正体です。どうして不安が起こるのか? まずはその『元(ルーツ)』を探ってみましょう。

人間にはエスが得意とする快楽原則と、自我が得意とする現実原則がありましたね。そして胎内にいるときと、産まれた直後は、エス(快楽原則)のみでした。

お母さんのお腹の中では文字通り母子一体で、安心感に包まれ、お腹が空けばすぐに満たしてもらえる、不満の無い楽園のような生活。
なので胎内であれば、ひたすら快楽を求めるだけの快楽原則でも充分なわけです。

それがある日突然に、その環境が一変します。
安住の地であったお母さんのお腹から、吸い出されるように狭い産道に入ったかと思えば、いきなり瞼(まぶた)の外が明るくなり、ワイワイガヤガヤと騒がしい場所に出されてしまいます。

目は見えないし、息苦しいし、何より「ナニガナンダカ訳が分からず」・・・で、赤ちゃんはとても嫌な気持ちになるわけですが、大きな声で泣くしかありません。(T▽T)

そして、このとき感じた嫌な気持ちが、私たちの感じる初めての不安である、と云われています。
ちなみに、泣くことで呼吸の仕方を学習する、とも云われております。

ただし、胎内と誕生直後の私たちの心は100%無意識ですから、実際に不安を肌で感じてはいないかも知れません。(^^;)
でもそれが不安とは思わなくても、「とても不快な感じ(++;)」はあったことは確かなずです。


では、私たちが初めて不安を実感するのは、いつでしょう?

そして、その理由は?

たとえば、お腹が空いたときでも胎内のときのように、すぐにその欲求は満たされません。
「(赤ちゃんが泣いた)これはお腹が空いたのだわ」とお母さんがオッパイを出すにしても、ミルクをつくるにしても、そこには数秒から数分という時間差(タイムラグ)が、どうしても出来てしまいます。

もしお母さんが「オムツが汚れた」と判断しオムツ替えなど始めたら、もっと時間がかかってしまいます。(^^;)
すると赤ちゃんは、指をくわえて、モグモグと、あたかもお乳を飲んでいるような仕草をし、私たちの目にはあきらめてしまったように眠ってしまう場合があります。

しかしそれは決して、あきらめたわけでも、「おいおい、お母さんよぉ(ーー;)」と抗議しているわけでもなく仮想的満足と云って、指をくわえてお乳を飲んだつもりになって、自分を満足させてしまうのです。

つまり彼らは、まだ快楽原則しか知らないので、仮想的でも本能的に欲求を即座に満たそうとするわけです。←この即座という部分がミソです。 

そうした快楽原則によるエスの働きを一次過程と云います。

しかし「それでは困る」と立ち上がるのが、赤ちゃん誕生とともに目覚め始めた自我です。
「いくらお乳を飲んだつもりで満足した」とは云っても、それでは栄養にも何にもなりませんから、そんなことをしていたら、やがて命の危険にもなるので、それでは困るわけです。

そこで自我は現実原則(たとえ不快であっても外界の現実に従おうとすること)にのっとり、「あの手、この手(防衛機制)」を使い、仮想的満足をやめさせ、ミルクなどの栄養分を摂らせようとします。

こうした、自我による現実原則の働きを二次過程と呼びます。
    
しかし、いくら自我が頑張ってみても、すべてのことが上手くゆくわけではありません。
自我にしてみても、まだ誕生して日数が経っていませんから、そのへんは経験不足でもあり、思惑をはずして失敗することも多々あるわけです。

ですが、そこは自己中心的なエス(快楽原則)ですから、そんな事情はおかまいなしで、即座に欲求が満たされないこと(自我・二次過程の対応)に不満が起こります。
つまり、「なんとかミルクを飲ませよう」とする自我の対応がもどかしく、待ちきれず「こんなことなら、一次過程(仮想的満足)のままで、良かったのに・・・(ーー;)」とイライラするわけです。

赤ちゃんにしてみれば、仮想的満足という欲求充足の衝動を禁止され、しかもその代償となるべき欲求充足(自我の二次過程)が上手く働いてくれないわけですからね。(^^:


そしてここからが、ようやく不安の話になります。
そもそも自我の役割りは、エスの欲求を満足させることです。
そうなると理由がどうであれ、この欲求充足の失敗は、自我にとって「任務を果たせなかった」ことに他なりません。
すると自我は何とも落ち着かない嫌な気持ちになります。

つまり「(満足できなかったエスが)また氾濫を起こすのではないだろうか」エスに好き勝手なことをされてしまったら、もう自分にはどうすることもできない・・・と不快な感情が起こる・・・実は、これが不安の正体です。

と、話だけが、やたらと長くなりましたが(^^;)、いま述べたことが実際には瞬時に行われています。

まとめますと、不安とは自我の欲求充足の失敗の結果に他ならないのですが、その結果、エスの中で起こる衝動の禁止が刺激となった体内での興奮(緊迫)状態が不安であると云うわけです。

って、ますます分かりづらくて、まとめになってませんね。(^^;)

つまり不安の原点は、エスを満足させられなかった自我の無力感と緊張と覚えておいてください。

そしてこれは、本能不安と云って、(乳児期だけではなく)人間が生きている限り(生涯)感じる不安の原点になります。
   





このページは『神経症と精神分析学』をスマート
フォンでお楽しみ頂けるよう再編集したものです。
※文章はスマートフォンで読みやすいよう編集し
てある為、パソコン画面では読みづらい部分があ
るかもしれません。また画像はパソコン版と共用
のため、スマートフォン画面では見づらい場合が
あるかもしれません。あらかじめご了承ください。


 
カウンセリングルーム アクト