心の詳細図(2)エス・自我・超自我(2)

前章では、エス、自我、超自我という、心で働くスタ
ッフたちを見てきました。
この章では、もう少し彼らのことを知って頂きながら、
心の成り立ちに触れておきたいと思います。



【もともとは、すべてがエスの世界】

まず、この3つの中で一番古いのはエスです。
一番古いというより、(もともと心の原型として)
産まれながらにして備わったものがエスで、動物で
いう本能部分もココにあります。

赤ちゃんが産まれた直後は、まだ自我も超自我も存在
していませんので、私たちが「オギャ」と誕生したと
きには、100%エスの世界に包まれていることにな
ります。

100%エス、つまり100%無意識の世界ですね。

前々章の『無意識の中にあるモノ』の中で、
自分では思い出すことの不可能な古い体験なども、
どうやらこの時期の記憶のようです。

※もっと古くは、私たちがまだ胎内(お母さんのお腹
の中)にいる時期の記憶も含まれる、とも云われてい
す。つまり胎内に存在する時点から、すでにエスは
存在していると云われています。ただし受胎後、どの
時点(何ヶ月後から)エスが存在するのか?について
は諸説ありますが、おおよそ5ヶ月(20週目)くらい
から、ではないかと思われます。


それにしても、100%エスの世界、、、ちょっと
想像が難しいですよね。。

そもそも、自我が無いということは、「私」が無い
と云うこと。

すなわち、(自分の中での)「私」と外界の区別も
無いということになるので、自分が見ているもの、
感じているもの、すべてが自分なわけです。

(もちろん自分という自覚もないのですが、そこは
表現上、勘弁して頂くとして。。。汗)

つまり、抱かれているお母さんも、吸っている乳房も、
視界にある風景も、自分がその中にとけこんでいる
感じで、すべてが一体、、、
自分と外界の区別がつかない状態、と申しあげたら、
分かりやすいでしょうか。

いずれにしても自分では意識できない部分ですから、
大変イメージのしづらい、不思議な世界です。(^^;)


※尚、エス自体には、成長や学習能力がありません
ので、生涯、上記の状態が続きます。



【自我の誕生】

そしてやがて、自分と母親の乳房は別の存在である
ことを理解します。

自我の芽生えですね。(乳幼児期)

※自我自体は、エスが誕生した時点で、すでにエスの中に
存在している、という説もあります。しかしその時点では、
まだ自我として機能しておらず、やはり働き始めるのは、
この乳幼児期からと云われています。


そして、快楽原則しかなく世の中に順応していけない
エスを、現実原則で助けながら、(エスの)欲求を
満たそうと頑張り始めるわけですが、それはまだ少し
先の話。
誕生時点での自我は、エスの中のほんの一部でしか
ありません。

※自我の誕生はエスからでは無く、まったく別の誕生
である、という説もあります。


つまり、まだ自分と外界は「別々のものらしい」とい
う認識が何となくあるだけで、まだ「私」という認識
も、「私」という定義も、持っていない状態ですし、
エスの快楽原則に飲まれ、「なんでもできる」という
全能感にあふれています。

全能感・・ 極端な云い方をすれば、地球上のものは、
すべて自分のために動いていて、自分が思うことは
すべて叶うと思い込んでいます。

でも考えてみたら不思議ですよね。自分では箸ひとつ
満足に使えない、言葉でのコミュニケーションもとれ
ない状態なのに「なんでもできる」、「なんでも叶う」
と思ってしまうあたりが。。

究極のジコチューと云ったところでしょうか。と云う
より、ココが自己中心性の原点なのでした。(笑)


そして徐々に、外界にはルールがあり、「出来ること」
と「出来ないこと」があることを学習しながら、同時
に「私」と外界(自分と他者)との区別を理解し始め
ます。

つまり、エスには生涯、気持ちの良いものを、
ひたすら求める快楽原則だけしかありませんが、
自我には、辛くても現実に従う現実原則があり、
経験から学ぶ学習能力もあるので、私たちは適応力
を身につけ生きていくことができるようになるわけ
です。

   

【そして超自我の芽生え】

そしてそんな自我の成長過程の中で、良心の塊(固ま
り)のような超自我が自我の中に誕生します。

心には、生涯ワガママなエスが存在し、そのエスを
助け社会生活が営めるよう自我が誕生するわけです
が、年齢を重ね行動半径が広くなるほど、エスの要求
もエスカレートしてゆきます。

そうした中で、超自我は、エスの助っ人である自我の、
さらに助っ人として誕生した期待の星・・・と思いき
や、さにあらず・・どうやら自我がエスのパワーに
押し切られ「テキトーくん」に染まらないように
(自我を)監視するために誕生した、と云えそうなのです。

事実、超自我はエスと対決し、自我を助けてくれるの
で「助っ人」と呼べなくもないのですが、結局、自我
はエスと超自我との板挟みで苦しむことになります。(^^:


そして良心に関しても、わざわざ超自我が誕生しなく
ても、自我の中にも良心は存在するし、年齢とともに
成長変化を遂げていくことができます。

ならば、超自我なる存在を考えず(認めず)、
「良心は自我の産物である」
と簡単に云い切ってしまえばよいのですが、
(さまざまな矛盾点などから)フロイドは
「どうやら心には、もうひとつの良心がある」
ことを発見したわけです。

つまり、自我の(良心の)中に、
また他の良心が存在している、と云うのです。

かなり、ややこしいですね。(^^;)

たとえば、ふつう良心は、人に悪いことをして
「あやまりなさい」と云われる前に、
「ああ、本当に申し訳ない・・・」
と、自然に心の中に涌いてくるものですよね?

しかし、超自我から出てくる良心は、それとは違って
いて、初めから、物事の良し悪しに関係なく、
「それはいけないことだ」
と、決め付けて、なかば強制的に罪悪感を感じ
させてしまうのです。

ですから当然、心の中では本当は悪いことをしていな
いのに罪悪感を持ってしまう自分に戸惑い、
「自分は悪くない」
という葛藤が起こるわけで、そうした理由から
フロイドは、自我の良心とは異質なものとして、
超自我の存在を確認したわけです。


では、その超自我(の良心)は、どのような経緯で
誕生したのでしょうか。

自我の良心が、人間の情緒(学習的な感情)から生ま
れたものだとすれば、
超自我の良心は、親の躾けなどの外部から植えつけ
られたルール的なもの、です。

超自我が誕生するのは、3歳後半くらいからで、
4~6歳ころになると急速に強化される、と云われ
ています。

この頃は、躾けが始まる頃で・・・
まあ、本当の意味での躾けなら、まだ良いのですが、
どちらかと云えば単なる『親の考え方の押し付け』
が多いですよね。
「これは、いけない」、「これは、こうすべきだ」
・・・と。

しかし子どもは、実際何も分かりませんから、
それがどういう理由であるかも知ることもなく、
「親に従っておけば間違いない」
と、とにかく自分が一番信頼する親の言葉を信じて、
それを鵜呑みにして行くわけです。

もちろん成長するにつれ、
「それは、ちょっと変じゃない?」
と思うことも増えて行くはずです。

しかし子どもは親の庇護(助け)を借りなければ、
生きては行かれませんから、、、(^^:

ともあれ、
そうして、親から子へと、代々受け継がれてしまう
『家系の伝統的な良心』が超自我です。

つまり、
「本当は、こうしなければいけないんだよな~」
という、緩やかな感情ではなく、
「ゼッタイにこればダメ」といったような、
有無を云わせない『良心』ですね。

そうなると「本当は悪くない」という反発心もあり
ますから、そこには反省も何も無いという、
『嘘モノな良心』とも云えるわけです。


もちろん、そんな超自我も、まったく無益(有害で無
用なもの)というわけではありません。

思春期以降、 強大化するエスの要求を、自我だけて
は受け止められないときに「それはダメだ」と、強く
否定し味方してくれるのが超自我です。


そして、超自我の良心は、親だけではなく、周囲の大人
(教師など)から、道徳や社会のルールなどを学び、
自我の良心だけでは足りない部分を補い、社会生活を
助ける役割もしています。

もし、この超自我の、なかば強制的な良心が無ければ、
社会のルールを学ぶと云っても、
『すべてが自分なりの解釈』になってしまいます。

つまり、本当は一定でなければ意味のない社会ルール
が『人それぞれで違ってしまう』と云う困った現象が
起こってしまうわけです。
たとえば「オレがルールブックだ」みたいな。(汗笑)


ただし、良い薬には副作用も多いのと同じように、
超自我の頑固さに自我自身が負かされてしまうことも
多くあります。

つまり、ワガママな要求を出すエスと、それを絶対に
許さない超自我との板ばさみになってしまうケースや、

理不尽な良心を押し付けてくる超自我に、自我自身が
圧倒された場合、そこに生じた(精神内の)葛藤が、
自我を打ちのめし、神経症などの心の障害に繋がって
しまうことも多々あるわけです。   


と、知らず知らずに長い章になりました。(^^:
しかし、とくに超自我に多くのスペースを使った
ことには理由があります。それは本書のタイトルでも
ある神経症に、超自我が深く関わる、キーマン
と思われるからです。
にも関わらず、自我とエスは、意識と無意識のように
比較的メジャーですが、超自我は前意識と同様に、
あまり知られていませんよね。
なので、超自我にスポットを、少し多めに当てるので
ありました。(^^:って、ホントかなぁ?笑

ともあれ、筆者が勝手に思うところでは、
エスと自我だけの生活ならば、私たち人間はとても
穏やかな日々をのんびり過ごしていたかもしれません。

しかし超自我の出現により、私たちの人生は一変し、
セカセカ、ピリピリと「頑張ることが美しい」に
なってしまったとも。そして歯車から外れそうに
なると心がつらいことに・・・

もちろん、そんな超自我のお陰で、今日の文明も
築けた・・と考えると、筆者はいつも切ない気持ちに
なるのです。。



さて、駆け足でありましたが、心の成り立ち、何とな
くイメージして頂けましたでしょうか。

つまり、心の母体はエスであり、そのエスの中で自我
が育ち、その自我の中に超自我が存在しているわけで、
云うなれば、エスにとって自我は子どもであり、超自
我は孫のようなものです。

であるなら、この三世代家族も
「いつまでも仲良く暮らしておりました」
と締めくくりたいところなのですが、俗世間の家族
関係にもイザコザがあるように、この家族関係にも、
いろいろと複雑な問題がある、ということのよう・・
ですね。(^^;)



次章では人間の本能の話。
そして次々章で再び自我の話(自我の苦悩)を書かせて
頂きます。



 


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