彼、ジクムント・フロイド
(ジークムント・フロイド)は、1856年、
ハンガリー王国(現在のチェコ)でユダヤ人
として産まれました。
父親にとって三番目の若い母親から産まれた
ために、母親と同年齢の異母兄弟たちがいまし
たが、 父親が40歳を過ぎての子であったため
なのか、彼はとても溺愛されて育ったと云われ
ています。
そして優秀な成績でウイーン大学の医学部へ進み
ます。しかしもともと彼は哲学者になりたかった
そうで、医学の道に踏み出すきっかけ(動機)に
なったのも、詩人であり、哲学者であり、科学者
や劇作家でもあるゲーテの『自然』という論文で
あった話は有名です。彼はゲーテに強い影響を
受けたわけですね。ではなぜ真っ直ぐに哲学者へ
の道を歩まなかったのでしょうか?
それは人間の心や身体を知ることで、「人間は神
ではなく単なる動物に過ぎない。そして自然の一
部に過ぎない」ということを証明したい。それが
彼にとっての『哲学』であったわけです。フロイ
ドの学問を『心の詩的科学』と評する声もありま
した。
大学での彼は生理学の研究者として、うなぎの
睾丸の発見などをしていました。
ですが、そのころ彼には結婚したい人がいて、
「研究者では食べられない」と、医師としての
開業を目指すことになります。そのへんは、
きわめて普通の青年ですよね。
さて、そのころの時代、精神医学の現状は、
と云いますと・・・・
古代から精神病などは、心の病であることは知ら
れていました。神経症も(精神病と)どこまで区別
されていたのか定かではありませんが、神経症は
『ヒステリー』(子宮を意味する女性特有の病気)
であると云う認識が古くからあったようです。
しかし、決定的な根拠や治療法が無かった事や、
心の事は神様にお任せするというキリスト教など
の宗教が強い勢力を持った時代という理由もあり、
その後長く、精神病や神経症などの心の病(説明
のできない現象)は、祈祷やお祓いなどに頼られ
ていました。
それでも彼が医師を志す頃には、心の病は病気と
いう認識が少しずつ広まり、呪術師や聖職者から
徐々に医師の手に委ねられるようになったようで
すが、当時の精神医学では、まだ充分に心のこと
が解明されておらず、「電気や磁気の流れが心の
在り方を左右し、心の病気を引き起こす」として
治療に電気や磁石を使ったり(ショック療法など)、
「催眠術が有効のようだ」と催眠術を使った治療
が行われていたようです。しかし、まだこれとい
った決め手もなく、多くの重症患者たちは病室と
呼ぶには程遠い、牢獄のような収容施設などで、
その生涯を監禁生活で終えるような状態であった
とも云われています。
フロイドも、そうした時代の人ですから、開業当初
は電気治療を行ったり、温水やマッサージを使っ
たりして、治療を行いました。しかし、どの治療
方法も思うような効果は得られません。
彼は、心の病とはいっても精神病とは異なる
神経症の治療を専門に行う医師でしたが、先輩
医師の考え出した催眠浄化法は、その後の彼の
精神分析(※自由連想法)の誕生に大きく影響
したと云われています。
催眠で眠っている患者に語りかけ、過去の不快
な出来事などを引き出すと、症状が緩和する。
他の療法に行き詰まりを感じていた彼は、この
催眠療法に没頭しました。
しかし、効きめが一時的であったり、催眠に掛か
りづらい人がいたり、催眠中に強い抵抗を示す人
がいたりで、彼は催眠浄化法をあきらめます。
ですが彼はこのときに、無意識的な部分にアプロ
ーチすることが神経症には有効であることに確信
を持った、と云われています。
人の無意識は夢によって開放される・・・この
ようなことから催眠は、当時の治療法には不可欠
なものと云われていました。
しかしフロイドは、患者が眠っているうちに治療
者が(患者の)無意識に手を加えることに大きな
疑念を抱きました。何より催眠をかけること自体
が、治療者による患者の支配(自由を奪うもの)
であり、また患者の治療者に対する依存度を強く
すると考え、治療から催眠をやめます。
その後、催眠を使わず患者のおでこに手を当て、
頭(意識のある場所)を圧迫することで、過去の
話を引き出す前額法という治療法を試みますが、
これはあまり大きな効果は得られなかったようで
す。
しかし彼は、この前額法からも患者と医師の関係
を学びます。つまり(医師は患者に)過去の話を
強要するのではなく、患者に自由に話させその話
をじっくり聴くという、話す者と、聴く者の関係
です。いまのカウンセリングの原型と云えますね。
そうしてようやく、彼の精神分析(※自由連想法)
にたどり着くわけですが、開業からすでに10年
以上の歳月が流れていました。
彼の考えには無意識が不可欠な存在でしたから、
彼は10年の試行錯誤のうちに無意識の確かな
手応えを掴んだ、と云えるでしょう。
まず彼は初めての本として1900年に『夢解釈
(夢判断)』という論文を出版します。(以前にも
出版はありましたが、共著であったり書簡集でし
たので、実質この本が彼個人として初めての出版
本となります)
この本は彼には、とても思い入れの深いもので、
出版から彼がこの世を去るまでに8回の改定があ
りました。
それは『この本が』というより、『夢』は、彼に
とっての無意識探究の原点になっていることの
証しと云えるように思います。
彼は夢によって、まず自分自身の無意識の解明
(自己分析)を試み、さらに研究と臨床を重ね、
やがて「夢(の解釈)は、無意識への王道である」
ことの確信を強めたと云います。
つまり、夢なくして、無意識の発見や研究、そし
て精神分析(※自由連想法)は成しえなかったわけで
すね。
ちなみに彼は、精神分析は神経症の治療法である
けれど『夢自体は正常な(健康な)精神活動のひと
つである』よって、精神分析も単に精神病理学の
補助的な存在ではなく、人間の心を解明する為に
不可欠なものである・・と著書で述べています。
その後、『無意識について』などを次々と出版し、
精神分析の集大成とも云える『精神分析入門』
という講義録を出版しますが、その無意識や精神
分析の内容が、あまりにもセンセーショナルであ
ったこともあり、社会全体の拒絶や誤解も多く、
決して順風ではありませんでした。
いずれにしても精神分析(学)をこの世に送りだす
までに、彼は60年の研究生活の半分を費やし、
この世を後にします。享年83歳でした。
※彼は67歳のころから上顎癌を患い、三十数度
の手術を受けました。晩年は片耳の聴力を失い、
言葉も不自由になっていました。しかし大好きな
葉巻を片時も離さず、生涯の最期まで研究と執筆
を続けたそうです。
さて、余談ながら・・・
いつの世でも、時代を先駆ける人は、なかなか
世の中に認めてもらえない、という辛さを味わい
ますが、このフロイド博士も、その一人だった
と思います。
その理由は、彼の打ち立てた学説が、あまりにも
斬新過ぎたと云いますか^^;、
その詳しくは別の章で述べさせて頂きますが、
要するに神経症の原因ともなる性格因子(性格の
元になるもの)、人間の発達段階が
「性欲に根ざしている」と仮説したためでした。
つまり、人間も動物である以上、その目的は子孫
を残す為に生存している。
「だから人間の精神の基盤が『性』にあっても
少しもおかしな話ではなく、むしろ当然である」
と云うわけです。
もちろん、よくよく話を聴いてみれば「なるほど
なぁ」とうなずける内容ではあるのですが、、
数々の誤解もあるにせよ、いつの時代でも自分の
性欲は伏せておきたいものであり、仮に理解でき
たとしても、おおっぴらに肯定することはしたく
ないのですよね。(^.^;
しかも道徳的見地から性が強く締め付けられた
時代のことですから、人々の彼に対する批判と
軽蔑の眼差しも、相当なものだったようです。
その強い風当たりは、医師や学者仲間から起こっ
たものですが、彼の学説うんぬんの他に、彼が
(当時迫害を受けていた)ユダヤ人であったこと
も決して無関係ではなかったと思います。
彼は多くの仲間や弟子たちを得ますが、そこで
も「理解し合えない」孤独を味わいます。
彼の研究に深い感銘や関心を示し、たくさんの
医師や学者たちが彼のもとに集まりますが、
仲たがいをしては去って行きます。
もちろん、この仲間や弟子たちとの問題に関して
は、彼の妥協を許さない熱心さ、頑固さの表れと
も云えるのでしょうね。
しかし彼が精神分析学という学問を遺すことがで
きたことに関しては、時代、時期的な幸運さも
あったように思います。
もちろん第一次世界大戦や、ユダヤ人種の迫害
などの理不尽な向かい風もありましたが、彼が
学者として歩み始めた時代が、次第に医学、とく
に精神医学のお膳立てが整い始めた時期だったと
いう事実は、彼の研究成果に無関係では無かった
はずです。
そして離反を繰り返したとは云え、彼は良い師、
良い先輩、良い同朋、そして良い弟子たちに恵ま
れていたことも、彼の功績を語る上では不可欠な
要素だと思います。
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