欲求とは

あなたは「いま」、何をしたいと思っていますか? 
そして将来を、どんな人生にしたいと願ってますか? 
とても判り切ったことですか、そうした目先の
「何かしたい」も、将来の「こんな暮らしがしたい」
も、 欲し・求めること。すなわち『欲求』です。

こうして改めて考えてみると、私たちの行動は
「すべて欲求の為にある」のかも知れませんね。

では、その欲求とは、
いったい何の為にあるのでしょうか?


①『水が飲みたい・何か食べたい』
人間は水分や栄養分が不足すると、身体が自然に
それらの補給を求める。
生命を維持する為の、生理的『自己保存の欲求』。


②『安全や、安定が欲しい』
①が保障されると、今度は安全に暮らせる場所や、
安定した生活が欲しくなる。『安全と安定の欲求』。


③『家族や仲間が欲しい』
②が保障されると、次には生活を伴にし、助け合う
家族や仲間が欲しくなる。
それは同時に、自分が社会の一員であることや、
愛し愛されていることの確認欲求でもある。
所属や愛情の欲求』。


④『人から認められたい』
家族や仲間ができると、自分の才能や能力を認めて
欲しくなる。また、その承認によって自分自身を
認めようとする。『自我尊厳の欲求』。


⑤『何かを達成し、残したい』
更に才能や能力を活かし、自分らしく精一杯に
生きたい。社会に役立つ 具体的な事実を達成し
残したいと思うようになる。『自己実現の欲求』。


「何の為でしょう?」と云いながら、いきなり
箇条書きで驚いたかも知れませんね。

しかしこれはイタズラな羅列ではなく、
キチンとした理由のあるモノなのです。

下の図のように、
①を土台に、②~⑤までをピラミッド状に
積み上げて行くと、欲求の階層が完成します。

これはアメリカの心理学者マズローが唱えた
欲求階層説』の引用です。



まあ、小難しいことはともかく、このピラミッド
から、何か感じることはありませんか?

「欲求にも段階がある?」・・・そうですね。
それは高次化と云って、生理的な欲求から次第に
欲求目標が高くなることです。

①は動物的本能で、②以降は、本能を超えた
人間特有の欲求と云えるでしょう。 

他にはありませんか?(^.^) 

それでは私が感じたことを、アクトの考える
『欲求』として、書いてみたいと思います。


段階があると云っても、欲求は複合的です。
たとえ地位や名誉を求めるようになっても、
生理的欲求や愛情欲求が消える訳ではありません。
それらは常に混ざり合って欲求されています。

人間の欲求は、上の階層に行くほど
「愛も、名誉も」と欲深くなる訳です。
しかし階層を良く観て頂くと解るのですが、
どの欲求も自分の生を維持する為の活動。

つまり、自己保存の進化形なのです。
したがって高次化は悪いことではなく、むしろ
人間には不可欠な『生き残り原理』と云えるで
しょう。

例えば、こんなことです。

乳児は何もしなくても親からの無条件の愛で、
生の安全と安定が保障されています。
しいて云えば「泣くこと」が、(愛情)欲求活動
でしょうか。 

しかし何時までも、そういう訳にもいきません。
親から受ける保護にも限界があり、自力で「生」
を守らなくては、やがては自己保存すら危うく
なってしまいます。

そして幼児期になると、実質的な自力での生の維持
を始めます。それはまだ不完全な「自立の準備」
に過ぎませんが、様々な欲求を駆使しての社会適応
を試み始めます。

さしあたっては誉められる事をして、親や周囲に
認められることを求めて行く行動です。

そして少年期から青年期にかけて、その実践に
なります。良い学校、良い仕事に進むことが、
社会に認められることですね。

その善し悪しはともかく、農耕や狩猟で暮らせた
時代と違って、いまは必要に応じた教育を受け、
仕事をし金銭を獲得しなければ食べては(生きては)

行けない時代なので、このように、周囲を喜ばせ、
承認を得ることで、自分の「生」を確立して
行かなくてはなりません。

つまりどんな欲求も、求める先は「生きていくこと」
だと云えます。

涙ぐましいことですが、進化したとは云え人間も
動物。 生きて行くうえでの欲求とは、こうした
ものなのだと思います。


余談ながら、、
こうした過程の中で、ガムシャラに勉強し働いて
きたけれど、
「自分の人生、本当にこれでよかったのか?」
と、突然空虚な気持ちになる人がいます。 
どうして、そのようになってしまうのでしょうか。

それは、その人が得たもの・・・
成績、学歴、仕事(職位・お金)は、
その過程、過程での欲求の手段や そのために出た
結果でしかないのです。

しかし、その人にとっては、手段や結果が、
すべてになってしまった。

本当は、その過程、過程での達成から得る自他の
承認などでの生の維持が目的のはずだったのに・・・

つまり、本来 欲求すべき「生」を忘れ、その手段
ばかりを追い求めてしまった為の虚無感だったのです。


欲求は何の為にあるか? 
少し答えの影が薄くなりましたが、
「欲求」=「生きる為」
ということがお解り頂けたかと思います。

なんだが夢のない話になってしまいましたが、
私たち人間は、結局「生きる為」に行動している
訳なんですね。

やはり人間も動物だったのです。


でも、ちょっと朗報もあります。(^.^) 
欲求も捉え方ひとつで、同じ生きるでも「生き甲斐」
に結びつくかも・・そんな話です。

欲求の原型が、何だかご存知ですか? 

それは「衝動」です。
よく「つい衝動的に」
なんて言い訳に使う、あれです。

その衝動とは
『思考・判断を経ないで、直接心を突き動かす行動』。
この衝動が満たされずにいる状態が、欲求です。


さて、なにやら面白いモノが出てきました。
そう『心』です。

前章で書きましたとおり、
心とは、自分にいちばん正直なものでした。
欲求は、その心が直接関与している・・・。

そうです。
つまり自分の心をキチンと掴めていれば、
本当に取りたい行動(生き方)ができる、
ということなのです。

もちろん、それには様々な規制や障害があったり、
(心・欲求が)いつも正しいとは限らず失敗に
終わることもありますが、自分の心に正直に
生きられるという可能性がある訳です。

少し長くなってしまいましたネ。 
結局、欲求は生きる為でしたが
「自分の心の声を大切にすることで、生き方も
変ってくるのだ」
ということを、ここでは覚えておいてください。

欲求は必ず満たされるものではありませんが、
心の声を失わずにいれば、良い方向は見つかります。

何故なら心も欲求も、いつも、まっすぐに
「生きること」を目指していますから・・・。



《編集部発》
さて、独断と偏見でお送りした『心』と『欲求』。 
楽しんで頂けましたでしょうか?

次回からの章は、この2篇での記述を「素」に展開
して行きます。どのような話になりますか、
お楽しみに。(^.^)


 


 

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