心ってなんだろう、何処にあるんだろう?
そんなこと、考えたことありませんか?
アクトの考える心は、
身体(からだ)全体にあります。
別の云い方をするなら、
感じたままを、そのまま伝えてくる感覚や、
全身から湧き上がってくる、怒りや悲しみの感情
が『心』なんじゃないか、と考えています。
昔から『心』は、胸にあると信じられてきました。
そう、「心(しん)の臓」と云われる心臓です。
喜びや悲しみがあると、胸が躍り、胸が熱く、
胸が苦しくなる・・・。
たしかに、そんな感じですね。(^.^)
たとえば悩んだときや、叱られたとき、
「きいてみなさい」と云われるのは、
「頭に」ではなく「自分の胸に・・・」でした。
そして考えすぎたとき、抱えてしまうのは、頭です。(^_^;)
そう考えてみると、
『思うこと(気持ち)』と『考えること(思考)』
は、別物かもしれない・・・と思えてきませんか?
つまり『心で感じる気持ち』は、
頭でつくられる思考とは違う、もっとピュア
(純粋)なモノかもしれない・・・と。
もちろん、そんなものがすべて一体となっている
のが人間ですから、ハッキリとした区別は難しい
と思います。
でも、「考えるより先」の
全身に走る感覚や感情の「実感すること」が
自分の本心、『心』であることは確かなようです。
たとえば、頭が考えで一杯になっていても、
気持を落ち着けてみると、別の素直な言葉に
気付けることがあります。
それが、心と思考が、異なったところで
働いている証(あかし)なのではないでしょうか。
あなたの『心』は、
どこで、どんなカタチをしていますか?
心理は実体の無いイメージの世界でもあります
から、どこにあっても良いと思います。
もちろんそれが、頭や、足の裏であっても・・・。
要は「それ」が自分の中に溶け込んで
「ああ、自分の本音は、こうなんだ」
と、肌で感じることができれば、
それでOKなのだと思います。(^-^)
ともあれ、
心はとても純粋でストレートなのに、
思考は理屈屋でオシャベリ。(^_^;)
「あの人が好き」という本音にも、
あれこれと理由をつけて飾りたがる。
それはきっと正直すぎる心に、
むかしフラれた経験を思い出させて、
また傷つかないように自分を守ろうとしている
のかもしれません。
でもそんな言葉巧みな思考に、耳を傾けすぎて
しまうと、自分の本当の『心』を見失ってしまう
のではないでしょうか。
《補足として》
『心』に対して、かなり大胆な定義をしました。
一般的には感覚・感情、意識・無意識、思考など
の精神の働きをまとめて、「心」と呼ばれています。
勿論それに異論はありません。
しかしアクトは更に絞り込んで、
感じることを『心』としました。
意識や無意識にあることや、「する・しない」の
思考決断も、元々は外からの刺激を、自分に感じる
ことから始まっています。
この始めの部分が、自分にいちばん正直な気持ち、
すなわち『心』であると考えた訳です。
「心に聴く」。
簡単そうで、難しいことかも知れません。
でも、みなさんも何かに迷ったとき、
気持ちを静かに「頭(思考)」ではなく、
「心(感覚)」で受け止めてみてください。
喜んでいる自分、怒っている自分、悲しんでいる
自分、楽しんでいる自分。
難しいい理屈より、感じたことを大切にする。
それが偽りのない自分との対話なのだと思います。
もっと現実的な補足をすれば・・・
感情が高まって胸が苦しくなるのは、交感神経に
よって、血管や筋肉の収縮が起こる為です。
怒りに胃がキリキリと痛むのは、全身が戦闘体制に
入るから・・・。つまり、闘いに不要な消化器系へ
の血液の供給を、制限してしまう為と云われています。
ならば恋に胸がキューンとして、
食欲がなくなるのも・・・?
そう、恋も闘いなのです。
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