第三章 mind-less 原因の考察

前章では、mind-lessの原因要素を
世代間や、地域との交流の貧しさが生んだ産物と、
仮説しました。

しかし、やむをえない理由で交流を断った人でも、
心を正常に育んでいる人はたくさん居ます。
なので、この仮説だけでは不十分なので、さらに
掘り下げてみたいと思います。

その前に、彼らの様子を、もう少し書き足して
おきます。

※このページでは、そうしたmind-lessな状態を、
個人に例えて『彼ら』と呼ばせて頂きます。



mind-lessな人たち

プロローグで、
『何ら感じることもなく、ゴミ集積場のような
室内で暮らす』と書きました。

では、そういう人たちが職場や学校で だらしが
ないか・・・と云うと、そんなことは無いのです。

綺麗な身なりや、お化粧は、むしろ普通の人たち
よりキチンとしているぐらいです。

もちろん、仕事や勉強も(人によると思いますが)
普通にこなしているので、誰も彼らの部屋が、
そんな状態であるとは信じられない(部屋の状態
と人柄が結びつかない)のです。


ただし、一事が万事ではありませんが、やはり
それなりの特徴がいくつかあるように思います。 

少し以前から『無気力・無関心・無感動』という
言葉がありますが、彼らの中に、どこか冷めた
部分が見られるかも知れません。(いや、シラ
ケタ感じ、と云った方が正しいかも知れません)

そして、もう一つの特徴として、これも以前に
『命令待ち人間』や『マニュアル人間』という
言葉がありましたが、「云われたこと・インプッ
トされたことは、そつなく出来る」という部分が
あるように思います。

※あるエピソード  
学校内で暴力事件があり、教員が事情を調べた
ところ、被害者の少女は顔以外の身体がすべて
アザだらけだったそうです。そして加害者に
聴くと
「顔は殴ってはいけないと覚えていたから・・・」
と、答えたそうです。つまり加害者たちには
「暴力はいけない」「何故いけないか」という
思考や感情以前の「顔以外なら可」というサイン
のみで動いていたようなのです・・・。


ただ、無気力とは云っても「鬱状態のそれ」とは
明らかに異なます。

また、冷めた感じと云っても、何かを悟った末と
いう感じではなく、ただ無関心なだけという印象
・・・例えは悪いですが、冷めた感じ、マニュア
ルがあれば動けるという、ちょうどロボットが
連想できるような気がします。


では何故、そのような『心を持てない人たち』が、
登場してしまったのでしょうか。

前置きが長くなりましたが、その理由を具体例と
反省を交えながら、少し考えてみたいと思います。


※表面的には、いま在る社会のマニュアル、ロボ
ット化の産物である、と結論づけも出来るのです
が、何かが産み出されるときには、やはりそれな
りの年月を要したはず。
つまり今日突然、その現象が発生した訳ではなく、
長い年月を経ての現象であろう・・・と。
それが前の章に書いた『歴史的背景』です。

無気力・無関心・無感動の『三無』にしろ、
『マニュアル人間』にしろ、やはりそうした歴史
を経て受け継がれてきた『時代の象徴』であった
と思います。

ただ、このmind-lessが、いままでの象徴と異な
る点は、『歴史の(悪い)象徴要素』を、すべて
引き受けたような現象であること。

そして、いままでは『心の欠点』程度であったが、
今回に至っては『心を失う』という、人間にとっ
て致命的な現象と思われる部分です。

もちろん私の思い過ごしであれば良いのですが、
いままで解決してこなかった(心の問題の)
ツケが、ここにきて一気に表出してしまったので
はないかと危惧しています。


一時代前の無関心 と いまの無関心
mind-lessの具体例と、原因の考察

マンションのドアを閉じてしまえば、近所や地域
と、深い関係を結ばなくても暮らせる。
そんな、一見快適な生活がありました。

しかし、人間は本来、自分の存在を証し、誰かに
認めてもらいたい生き物であり、
やはり他人の評価が、とても気になるものです。

閉鎖した暮らしは、それなりに快適ではあるもの
の、それとは裏腹に、どこか心が落ち着かないと
いう部分は、無かったでしょうか。

そんな心のザワツキの芽が、1980年代、
すでに人々の心の中に あったように思います。


※1970年代もにも、そうした兆候はあったの
かも知れませんが、まだ高度成長に浮き足だった
時代なので、比較的『平穏期』の1980年代が、
もしかしたら修正のチャンスだったかも、と思い
ます。
しかし、むしろ平穏期なだけに、人々の思考は
平和ボケでゆで上がり、反省の「は」の字も無か
ったのでしょうね。
そして、またバブル成長期がやって来て、世の人
たちは、お祭り騒ぎ・・・。私も同罪です。


しかし隣り近所も、自分と同じに無関心を装い
関係を拒む(?)ものだから、それらを確かめる
すべがない。いつも自分の心を開く準備をし、
チャンスをうかがいながらも、
ついキッカケが無いままに・・・。

つまり20年ほど前の『無関心さ』には、人と関
わりたいが、どうもそのキッカケを失ったための、
関心はあるんだけど・・の、お互いがお互いを
『横目で見る無関心さ』だったように思うのです。


※もちろん今でも、『関心』を持って、人との関
わりを望んでいる人も多いのですが、人との関わ
り願望も、この20年で随分と変わったように
思います。当時はまだ、人との関わり方を知って
いる人が多かった。でも、いまは、関わりたいと
思っても、その関わり方が分からないという
二重苦があるように思います。


しかし、いまの『mind-lessな無関心さ』は、
初めから関心を示していないのです。

本当なら、「自分がいて、他者がいて」という
構図が人間社会なのですが、誤った個人主義の
弊害でしょうか、
自分に対しての相手が存在しないのです。

たから、自分が他人に迷惑をかけても罪悪感を
感じないし、隣りで何が起ころうが、
関係がないのです。


仮に、路上に捨てたゴミを注意すると、
彼らは一様に
「誰にも迷惑を掛けていないし、あんたには関係
ないだろ」と、俗にいう逆ギレの態度で反応して
きます。

私は初め、それは「後ろめたさがあるのだろう」
と思っていました。もちろん、そういう人もい
ます。

しかし、初めから自分と他者を切り離し
『他者は存在しないもの』と考えれば、彼らの
言い分は、筋が通っているわけです。


もし、彼らが自分と他者(社会)との繋がりを
自覚していれば、
「自分が捨てたゴミは、誰かが片付けている」
と云う事実、そして、
もし、その処理を公共機関がするので
あれば「その処理費は税金であるという」
云う事実・・・

いずれにしても、そこには、他者に負担(迷惑)
を掛けている・・・という事実認識から
「誰にも迷惑を掛けていないし、あんたには関係
ないだろ」という言葉は出てこないはずです。

しかし残念ながら、彼らから、そうした認識や
罪悪感を 感じ取ることができない。

つまり、そうなれば、ここに書いた自他を切り
離してしまった為という仮説も残念ながら
成り立ってしまう訳です。

※もちろん、すべての心を失ってしまった訳では
なく、「ああ、まずいことをしたな」と云う気持
ちがあっても、それを上手く処理できず、無関心
を装うこともあると思います。 むしろ、まだ、
そうであって欲しいと願っています。



では、何故そうなってしまったのでしょうか。

結論から云えば、
情緒の欠乏だろうと考えられます。

皮肉な云い方をすれば、彼らは食事や、お小遣い
は受け取っていたけれど、情緒という感情に関わ
る人間にとって もっとも大切なものを肉親など
から、いちども受け取らずに来てしまっている
のかも知れません。

その根拠の一つとして、
彼らは、心がないと云われながらも他人からの
評価や見た目を、とても気にします。
そして、異常なほど、怯えをみせます。

自分に対して攻撃と認識すると、必要以上に抵抗
を示します。いわゆる逆ギレのような。

それらは
「俺たちは決して心が無くなった訳ではない」
という主張のような気がします。

そして「おれの気持ちを、ちゃんと見てくれない
から噛み付くのだ」
と云っているようにも思えます。

それは・・・
親から認められた経験がなかった為に、自分が
確立できず、自分自身に対する評価が持てない
(つまり、自分が自分で良いのだという確証が
持てない)から、見た目を気にする(それしか
自分を計るモノが見つからない)。

それでも、認められたいと云う人間本来の欲望
から、他人の評価を異常に気にしてしまう・・
の悪循環が、そこにあるような気がします。

もし彼らが野生化した動物のように見えるとし
たら、それは情緒を育める土壌と、本来あるべき
愛情に飢えているだけなのかも知れません。


つまり、彼らは世代間や、地域との交流の無い
世界で、親からも、周囲の大人からも、情緒と
いう大切なモノを受け取りそこなってしまった
人たちなのだ、と云うのが、ここでの結論です。

そしてここでも、伝承の失敗があった
と云えてしまうわけです。

そして、
そうしたさまざまな伝承の失敗こそが、
心を失うmind-lessの現象の原因である
と結論づけてしまうのは、尚早でしょうか?

「ただ、それだけのことなのか?」
と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、
それが有ると、無いとでは、雲泥の差なのです。

もしそれさえあれば、どんな劣悪な環境の中でも
自分を失わずに過ごせる、とさえ云えるほど、
感情の拠り所である情緒は、大切なものなのです。


ただ、ここで申し上げておかなくてはいけない
ことは、「それなら犯人は親だ」と云い切っては
いけない(云い切れない)ということです。

親だって、初めから子育てに失敗しようとした訳
ではないでしょうし、もしその親自身が、親から
の愛情を充分に受け取れていなければ、
自分が愛情だと思って注いでいたものが、
実はそうではなかったということだって
有り得る訳です。

そして、それはその親子たちばかりを責めること
はできない。

やはり、その時代時代の背景の空気があって、
それを信じ込んでしまうことは(ある意味)
仕方がないように思います。
(そういう連鎖は事実あります)  

もちろん、過ちに気付けなかった部分や、正せな
かった弱さは認めなくてはいけませんが、
それ以上、親たちだけを責める資格が、誰にある
のかな・・・と、私なら考えてしまいます。

  
誰の責任とも云えない・・・前章で長々と歴史を
書いたのは、これを申しあげたかったからです。

いろいろな事情があるにせよ、核家族を選んだ。
どこかでもし、家族の在り方、人間関係の在り方
を見直すことができたなら、核家族も、もっと
違うカタチになっていたでしょう。

しかし私たちは、親世代の時点であれ、自分世代
の時点であれ、それを省みることをせず
(ある意味、楽な方を選び)流されるままにし、
その見返りとして、相談したり助けあったりので
きる環境をも放棄してしまったのです。

そうしたことのすべてを、個人的な自業自得と
云うのには、あまりにも相手が大きすぎますよね。

誰の責任とも云えない・・・だから、この責任は、
その歴史を歩いてきた、私たち全員が引き受けて
行くべきではないかな・・・と思うのです。


まだ書かなくてはいけないことは、たくさんある
のですが、原因を取り上げて騒いでいるだけでは
埒が明きません。

教え込まれたことは、そつなく出来るのですから、
能力的には充分適応できるはず。

持って生まれた心は、誰にでもある訳ですから、
それをこれからでも育む環境が出来てくれば、
回復も充分に可能です。

いや、その云い方は傲慢ですね。ここまで、
彼らという表現で書いてきましたが、私とて、
充分にすべてが完成している訳ではなく、
(時代の中で)心が鈍化しているのは事実なの
ですから
「自分自身 mind-lessに蝕まれているのだ」
という認識と、
「放置すれば本当に心を失ってしまう」
という危機感がいまもっとも大切なのだと
思います。

  
次の章では、私なりに考えた回復案を、提起して
みます。
ご自分のことでもあるという認識を持って、
一緒に考え、取り組んで頂けたら、これほど
心強いことはありません。

 




・当記事は2002年に掲載したものを加筆修正し
スマートフォン対応に再編集したものです。
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