人の為に尽くす  補足

結局、『神経質な方お断りします』以外の
神経質コラムの結論(や、結論に近いもの))が、すべて
『人の為に尽くす』になってしまいましたが(^^:
詰まる所、それだけ
「神経質はとても素晴らしい性質であるが」
「それは人の為に使ってこそ素晴らしいものになる」
という話なワケです。

もちろん、その性質が最大限に活かされてくれば、
あなた自身も「幸福になれる」こともお約束したい
と思います。

え?ずいぶん大きく出たけど大丈夫?ですか?
ええ、なんなら保証書までつけちゃいます。^^ゞ

ただし・・・(ほらきた?笑)
その『尽くす』がホンマモノになることが条件です。

ん?「ホンマモノになる」ってどんな?('_')


この補足では、そんな話をさせて頂きたいと思います 。


まず、
本編の各コラムにも書きましたように、
『神経質』は、マイナス面ばかりが有名ですが、
実は、才能とも云うべき素晴らしい能力を秘めて
います。

そして、もちろんこの能力は
「いくらでもお金を出すから欲しい」
と思っても、出生時の標準装備品(笑)ですから、
オプションとして買い求めることは出来ません。(^^:

なんて、冗談はさせておき、しかし、それくらい、
この神経質がプラス面で活かされたときの輝きは、
神経質性質ではない人にとっては垂涎の一品である
ことは間違いないでしょう。

もちろん、神経質を嘆いている時点では、
まだ(磨かなければ輝かない)『原石』の状態ですから
大事に磨いてあげる必要があります。

そしてその磨き方の一つ・・・と云うより、
ある意味、輝かせる唯一の方法が、
『人の為に尽くすこと』であると筆者は確信的に
考えているわけです。

別の云い方をするなら、神経質の使い方は一つ。
人の為に使うべし。

突き詰めて云うなら、
ほかに有効な使い道はナシ・・とも。

※もう完全に『尽くす=輝く唯一の道』と決めつけ
た話になってますが、これは筆者の主張ですので、
この独断と偏見をお許しください。(^^:



で、いきなりですが、
ここで簡単なチェックをしてみましょう。

あなたは「人の為に尽くす」という言葉を聞いて

1.「それなら(日々)やっている」

2.「なるほど、それは名案だ。やってみよう」

3.「ピンとこない。なぜそんなことするの?」

の『どれ』が今のご自身に近いでしょうか?
一番近いものを選んでみてください。

これは云わずものがな、あなたの原石の状態の
チェックです。

もちろん、1が一番輝きに近く、
2、3・・・の順となるわけですが、

仮に1の「尽くしてるよ」と云う場合でも、
2の「納得」があった場合でも、その内容が誤った
方向であれば原石は輝かない・・

しかしそれでも
「尽くしたほうが良い」と思っている点では、3の
「どうして?」よりは輝きに近い・・
一歩リードという(暫定的な)判定になるわけです。

ちょっとそれは横暴では?
と思われるかもしれません。(^^:

が、それは追々ご理解頂けると思いますので、
ともあれ話を続けます。


たとえば、
さきほどの3以降に4、5・・と数字が続くとして、
「そんなバカなこと・・」と反感を感じたり、
『犠牲』という言葉が真っ先に浮かぶとします。

つまり、3よりさらに『尽くす』気持ちから程遠い
ものになったり、具体的な
「尽くすとは自分を犠牲にすることなり」
という考え方に行き着く場合には、さきほどの原石も
輝くどころか地中深くに埋まっている・・・と筆者は
考えるわけです。(^^:

もっとも、おそらくそれは1や2を選んだ人でも、
頭の片隅に少しは『犠牲』という言葉があって、
ときどき天秤にかけることがあるかもしれません。

ま、それくらい『尽くす』と『犠牲』は対局(正反対)
に位置するものだと思いますし、人間の気持ちとは
竹を割ったように
「さあ、どっち?」「こっち」
と明確に分けられるものではありませんから、
何番を選んだから正解とか、『犠牲』が脳裏にある
から不正解という訳ではありません。


えっ?だったら、さっきのチェックは、何の意味も
持たないってこと?(^^:

いえ。しかし、『神経質の活かされ度』や自分自身の
『自己中心度』の目安にはなるはずです。

たとえば、極楽とんぼ野郎が「やいのやいの」と
騒いで勧めるから
「ま、ひとつ騙されたつもりでやってみるか」
と、『尽くす案』を実践してみたとします。

はじめは、やはり『犠牲』という言葉しか浮かばす、
「やっぱり極楽野郎のガセネタだ」と怒り心頭だった
けれど・・・

実践するうちに何となくだけど
「充実感というか、神経質も満更ではない」
と思うようになってきた
「ほんの少しだけどね」

と、そんな変化が続く中・・・

ある日、気づいたら『犠牲』という言葉すら浮かば
なくなっていて、反対に
「人の為になることが嬉して毎日が楽しい」
と感じるようになったとすれば、

あなたの『神経質の活かされ度』はMAXに近く、
嬉しく楽しい毎日を祝福するかのように原石は輝き、
幸福感もMAX。

反対に『自己中心度』はゼロよりも地中深く完全に
消え去っていることでしょう。(*^^*)

なんて、例え話にしても、都合の良すぎる話ですが(
汗笑)
しかし、ありえない話ではないですよね。(^.^)


※冒頭、『尽くすがホンマモノになれば』という
条件を書きました。はじめから『ホンマモノである』
必要はないですし、意気込んで『ホンマモンにする』
必要もありません。第一、意図的に作っても、それ
はニセモノですからね。(^^:
要するに『ホンマモノになる』か『ならないか』は
ある意味『自然の流れに任せる』しかなく、もし
『ならない』場合には、どこかに無理や意図的な
要素があるからで、また頭を切り替えて、真っ白な
気持ちで始めるしかありません。(^^:



◆『貢献感』=『幸福感』と云える根拠

では、何故そんなことが云えるのか?
これは森田療法理論というよりアドラー心理学の
応用です。

ここは森田療法のページですので、アドラー心理学
についての詳細な説明は省きますが、フロイドや
森田正馬と同時期に活躍したオーストリア出身の
精神科医アルフレッド・アドラーは、
『人間にとっての幸福は他者貢献である』と唱え、
精神分析から『個人心理学(アドラー心理学)』として
新たな学説を発展させました。

他者貢献・・・つまり、自分が社会の一員として
どれだけ(周囲の人を含めた)社会に貢献できている
かです。

そしてその「貢献している」という貢献感こそが
『幸福感』なのだ・・というわけです。

もっと云えば、
自分が人類の一員として、社会に・・いやこの世、
宇宙、、地球上に生きる以上、何かしら貢献し、
「ここに自分が存在してもいいのだ」
という『居場所』を感じられたとき、それがそのまま
『幸福感』と呼べるものになる。

簡単な説明ですが、アドラーは、そう考えたのです。

※誤解を恐れず云うなら、
自分が感じる『幸福感』ですから、自分の貢献に
対しての他人の評価は関係ありません。
そういう意味では自己満足でOKなわけです。


たしかに、私たちは自分が『自己中心的』と感じる
ほど、自己嫌悪を感じ、ときには「自分なんて」と
『腐る』ところがあります。(^^:

逆に「人の役に立てたなぁ」と感じられたときは、
なんとも云えない満足感がありますよね。(*^-^)


そして多くの人は、自分の至らなさ(幼稚さ)を
「これでヨシ」と思っているわけではなく、
「なんとかしなければ」
「自分を変えなくては(何かを始めなくては)」
と常に、嫌悪感を先々の不安とともに持っています。

ただ、その一歩を踏み出す勇気が持てないだけ・・
あるいは「どうしたら・・」と云う(変えていく)方法
がわからないだけ・・なのだ、とアドラーは云います


さらにそこで、
「自分を変えていく」ことも「変えずにいる」ことも
「自分の意思で決める『選択の自由』がある」
ともアドラーは述べています。

ただし、選んだ以上は、その結果を受け入れないと
いけない・・・とも。

自分の意思、選択の自由・・・
ある意味、とても厳しいですよね。
はい、厳しいはずです。(^^:

なぜならアドラー心理学の骨子にあるのは、
『人間の再教育』ですので。(^^:

つまり今まで依存的に育ってきた心を、
自分の意思で選択しながら、自分の力で育て直して
いかなければ、本当の自立も、本当の自由も手にする
ことはできないのです。


でも、『再教育』って、
どこかで聞いたことがあるような・・?(^^:

はい、森田療法でも使われていましたよね。

その他にも、森田療法とアドラー心理学には、
似たような概念(考え方)がたくさんありますが、
筆者自身が一番感じた共通点は、

人間はやはり、
まず、ありのままの自分自身と、置かれた現実を
そのまま(素直に)受け止めること。

そして、(そこを起点として)
そこからその先「どう生きていくか」の選択を
していかなくてはならない。

と云うことを、この2人の先生から学んだような
気がします。


どちらも、とても難しく大変なことですけどね。(^^:
しかし、大変だからこそ、得るものだって、
その後の人生を一変させるほど大きいし、
素敵なものになるのだと思います。

あとは踏み切る勇気ですね。




さて、とても長くなってしまいましたが、
『人の為に尽くす』
その大切さ、何となくでもガッテンして頂けました
でしょうか?(*^-^)

はじめは『見様見真似』でも良いと思います。
大事なのは「相手のことをしっかり考える」こと。

その『考えること』の思考がしっかりと出来てくれば、
相手にとってどんな手助けが必要なのかも見えてくる
はずです。

要は、その尽くすこと(貢献すること)が、
仮に『自己満足』であっても、
決して『一人よがり(自分本位)』にならぬよう、
心掛けることだと思います。


そして『尽くすこと』が実践されていくうちに、
『内』に向いていた神経質が『外』へと向かいだし、
ダイヤのように輝きはじめる。

それと同時に「貢献している」という充足感が
「自分はここに居て良いのだ」
という居場所への確信と幸福感に変わる・・

という図式なのですが、
みなさんは、どうお感じになりますか?

2016.5.23



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